常高院と七人の侍女
  -小少将は語る-

                              堀家 守彦 著


「城 苑」 丸亀市文化協会(平成17年3月発行)より

下の本文の朗読です(15分)。朗読:島田美智子 

 これから、私が申し上げようとしていますお話は、刑部様が丸亀へお入りなされる百年ほど前のことから始まります。

 皆様方もよくご存知のとおり、京極刑部高和様は 字多天皇の皇子敦實親王様を祖とされます近江源氏三十一代の御当主でございます。刑部様が、播州龍野を離れられ初めて讃岐丸亀へ御上陸されたのは、明暦四年(万治元年)五月五日でございました。それから七代二百年の間、京極家は丸亀城を中心として、西讃を治めることになったのでございます。私が御仕え申しました常高院様は刑部様のお祖母様に当たられるお方で、京極二十九代宰相高次様の奥方様でございます。

 福井県小浜市に、凌霄山常高寺と申しまして、丸亀の玄要寺と同じ臨済宗妙心寺派のお寺がございます。このお寺は常高院様がお建てになられ、又、ここをご自身の墓所と決めていられた事は、松江ニ十六万石の城主になられた京極忠高様宛の「かきおきの事」に、記しておられます。

 後瀬山の麓に建てられていますこのお寺の最上段に常高院様の墓所が作られております。お墓は四メートルもある立派な宝篋印塔でございまして、前面に「常高寺殿松岩榮昌大姉」左右に「寛永十暦癸酉年/八月廿七日」と書かれてあります。 この宝篋印塔をお護りする形で七院の尼たちのお墓四十八基(うち四基は殿方)が周りに建てられております。
 
七院と申しますのは、常高院様が御他界なされた時御仕えしていました侍女たちが尼になり常高寺の傍の尼屋敷に住んで、お位牌をお祀り申しました桂久院・法心院・光雲院・昭陽院・節心院・清涼院・盛春院がその七院でございます。
 七院の一世は、文書や書に優れた新太夫、紡績が特技の多芸、裁縫の得意な知也保、持仏の租旭、巾櫛の志毛、持仏の楊林と、わたくし小少将の七人でございます。二世以後は、七院ともお弟子が次々と受け継いで明治維新まで続いたのでございます。
 お墓の位置を見ますと一世の墓碑は宝篋印塔の正面に横一列に建ててくれてあります。その中央に私の墓石が宝篋印塔と向き合って建てられています。申し遅れましたが、私生前は小少将と呼ばれ、諡号は桂久院榮珊寿盛と贈られています。近江の高島郡田中の里の生まれで、生家は三好姓でしたが、後に勝田と改めております。私が常高院様の許へ参りましたのは天正十七年、十三歳の時で、父長清に連れられて大溝のお城で常高院様にお会いしたのでございます。

 さて、この辺りで私たち七人の侍女のご主人様のことをお話しなければなりません。常高院様は近江の浅井家のお生まれで、父君は長政公、母君は織田信長公の妹君のお市の方様でございます。浅井の三姉妹とよばれた美人姉妹のお一人で、姉君は豊臣秀頼公の御生母淀君であられますし、妹君は徳川二代将軍秀忠公の奥方となられた小督様でございます。お二人の間のお初様が、高次公夫人常高院様でございます。
 後に岐阜市佐野の栄昌院に建てられました常高院様の供養塔に「大姉は永禄十一年・一五六八年生れ、性質温良で、頗る雅量が有り、豊太閤が養い京極宰相高次公に嫁す、豊太閤から特に朝鮮伝来の観音尊像と化粧二千石余を賜る。高次公没後三宝に帰心、剃除して老女と、念誦供養に怠りなし、寛永十年八月廿七日江戸邸で逝去、小浜常高寺に葬る。この際、老女など七人剃除供養冥福を祈り、一人も去る者なし」と、丸亀玄要寺十三世で、このお寺の一世となられた南隠和尚様が書かれておられます。

 この碑文は戦乱の際のことに触れられておられませんが、常高院様は常に、高次公のお側に居られましたから、関ケ原の戦いの時には殿様や家来と一緒に大津で籠城なされ、西軍をくい止める為に、兵糧運びまでなさって城をお護りなさいました。鉄砲玉が飛ぶ中、私もお側を離れず働き、その時の弾傷が老年になっても残っていました。又、殿様御他界後の、慶長十九年寅年大阪御対陣の時は、関東のお内意で和睦のお使いを果たされました。元和元年大坂夏の陣には豊臣・徳川両家の講和を謀られる為、大坂城内で姉君を説得して居られましたが、若狭守忠高様から御内通がごあり、密かにお城を御退出されたのでございます。危険を冒して戦場の中を突破をされ、若狭守様の御陣屋に入られたのは落城の前日でございました。これらの時には必ず、私もお供しておりましたので、そのご苦労ご心痛はよく承知・理解申しあげております。

 寛永十一申年常高院様が江戸で御逝去され、私たち七人も、なきがらのお供をして若狭まで参り、剃髪しました。その節、私は小少将を桂久院と改め、他の者も院号に改めて、小浜で、生涯、常高院様の御廟所をお守りしたのでございます。また、京極家は常高寺と尼屋敷の監督や世話のための藩士を、明治維新まで派遣しておられました。その中の一人に私の甥、十太夫尚征が居りました。彼は江戸で常高院様の御家老を仰せつかって二百石を頂いておりましたが、なきがらのお供をして若狭まで参り、常高寺と比丘尼屋敷を預けられ、七年間勤めて病死致しました。同じように小浜で勤務中に亡くなられた方が他に三人おられまして、この四人のお墓は常高院様の宝筐印塔の右側に建てられております。

 ここで、岐阜栄昌院について一寸お話ししましょう。先に常高院様に太閤様からニ千石余が贈られたと、供養塔の文でご紹介いたしました。徳川家の世になりましても、是は認められておりましたので、常高院様はその中で三百石を、常高寺に分けることの許可を受けられ将軍様から朱印状を頂いておられました。従って常高寺には三百石の寺領がございました。一方、お位牌をお守りしていました私達七人と、その後七院を継ぎました尼たちには、京極家から扶時が与えられておりました。其の為、後に京極家が松江へ移られても、寺と尼屋敷は酒井様のお城下で残っていたのでございます。

 しかし、時が移って明治の世となりますと、徳川家も京極家も、お寺や家来や尼たちに禄を与える事が出来なくなりました。お寺はなんとか残りましたが、お位牌をお守りしていた女性ばかりの小浜西屋敷とも呼ばれた尼屋敷は、収入が無くなり、維持出来なくなりました。困り果てた尼達はお位牌を奉じて、京極家の菩提寺玄要寺を頼って丸亀へ参りました。玄要寺の記録には七院の中、盛春院の名が見当たりませんので、玄要寺へ移ったのは六人のようです。しかし、京極家は新政府の命令で神祭に転じておられましたし、玄要寺も京極家の禄を離れておりましたので、ここも尼達の安住の地にはなりえませんでした。 尼の中には還俗して藩士の男子を養子にして、一家を興した者もありましたし、実家に帰った者もございました。

 その中で桂久院十一世恵林尼と光雲院九世義裕尼・節心院十一世智栄尼の三人は、栄昌院の再興を強く望んでおりました。 このことを知った玄要寺の南隠和尚様が、岐阜の佐野に寺を建てられご自身が一世となられ三人を移したのでございます。明治十二年頃、恵林尼と義裕尼二人は、再び丸亀へ移りましたので、智栄尼一人が残って、栄昌院の経営に当たったのでございます。その跡は恵能尼・松山尼と継ぎ、現在、野原至道尼が住持しておられます。このお寺のお蔵には、常高院さま宛の小督様の手紙が保存されていますし、お寺を護った歴代尼達のお墓と共に、常高院様の供養塔が建てられております。

 明治の世になって、私たちの後継者がどうなったかにつきまして、佐野栄昌院を守った節心院智栄尼以外、ほとんどの者がお寺とは別の生活に入ったようでございます。遠山家へ帰った照陽院寿栄尼と、勝田家関係の恵崇尼・恵林尼以外の消息は私にもわかりません。
 
 小浜の常高寺では毎年九月二十七日に常高院忌の法要と記念講演会を開いて、常高院様や私たちの生活していた京極時代を顕彰してくださっています。皆さんも是非、かって京極家がお城を構えて治めた小浜、そして、常高院様と私たちの眠る常高寺へお出かけください。

                作・堀家 守彦
                朗読・島田 美智子




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