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戦後六十年を迎え、私の住む広島県でも原爆投下に纏わる様々な投げかけが行われている。 テレビや地元新聞など、いろいろなメディアからの記事やドキュメント、被爆体験者からのメッセージ、そして関係内外からの意見交換……。広島県や長崎県に住んでいると、そしてその地域で義務教育に携わる生徒や教師や関係者たちは、否応なく“原子爆弾”なるものに触れることとなる。曰く、原爆資料館への社会見学や、語り部の人たちからの体験談や、被爆者・被爆二世・三世との付き合いなどだ。 東隣の岡山県に行くと、原爆教育なるものは一切、行われていないと聞く。ここで考える。この温度差は一体どういうことなのだろう、と。そして一つの結論を出す。私も含めて人は過去に対してしか賢く生きられない、今日と明日に対しては永遠に愚かなのだ、と。 原爆を語れば、各都市の大空襲や沖縄戦を語れば、更に世界各国の戦争を語れば、何ゆえ戦争が起きたのか、自ずと考えざるを得ない。ここに気がついている人たちはどれくらいいるのだろうか。そして、あえて言う。戦争は全員加害者であり、全員被害者なのではないか。 争いや諍いは、憎しみ、恨み、怒り、欲の拡がりといった、人心の根幹にある根深い悪と罪が源になっているのではと私は考えている。そしていま現在、これだけ政治、宗教、人種、民族、差別と偏見、地域経済格差の繋がっている世界で、これら目に見える争いと向き合い戦うことは容易ではない。何故なら、先に述べた私達の心に根付いた悪と罪を滅すると共に、それらの問題への解決策を講じなければならないからだ。 先頭で述べたメディアからの様々な投げかけが、この考えのきっかけになることを願って止まない。せめて私達の心内くらいは何とかできるのではないか、そのきっかけになるのではないか、と。 誰か考えている人はいないか。原爆資料館移動車なるものを造り、語り部の声を流しながら全国各地を巡るなどということを。運転手と運営手と案内役は、今の社会の最大公約数からは離れている私が引き受ける。倖いにして学芸員資格も持っている。日本各地と言わず、世界の果てまで行っても良い。 これは理想論だろうか? (2005年8月30日) |

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