〜丸山 健二〜
(まるやま  けんじ)
 
おそらく、評価はまっぷたつに割れるであろう作家だ。
「なんという独善的で無謀な」という評もあれば、「打ちのめされた」という評もあるだろう。
小説、エッセイ、評論などの連載はせず、書き下ろしだけで勝負している作家なので、
特定の読者しかついてきていないだろうし、
著者曰くの「少女趣味的文学愛好家」などははなから相手にしていないので、
読まれる絶対数も甚だ少ない事だろう。
 

著者に対して
 大学二年の時、『文学界』に掲載された『野に降る星』を読み、その骨太の文体、情念に迫るディテールに圧倒させられる。以後、『千日の瑠璃」他エッセイを読み、現在に至る。
 昨今流行りの「癒し」「自分探し」といった言葉に酔っている人は読まない方が良い。
 岩石のような堅い文体、心根の臓腑をえぐるような言葉の数々、甘えや妥協を一切排除した“書く”姿勢。読み手として対決の姿勢で読まねばならない、数少ない作家であると思う。
「小説家の答えは小説でしか示せない」という著者の言葉を汲むと、もう少し作品を読まねばと思うのだが、著者の苛烈な心情(と、信条)の裏側を知りたくなり、エッセイを読み込んでしまった。私の悪いクセだが、これから『つんどくよんどく』を読む所存。
著作 読後感
『千日の瑠璃』
(上・下巻)
 
文藝春秋
1992年 刊
 文藝春秋六十周年記念の企画で書き下ろされた作品。
“まほろ町”に住む不思議な少年・世一と、彼に飼われる事になった禁鳥・オオルリ。彼らを取り巻く森羅万象を、一日400字の原稿用紙に映し描いてゆく一千日……
 緻密、濃密な文体。著者の想像と創造によってのみ作られ、曼陀羅図のように描かれてゆく登場人物たちと情景は、強烈な印象と存在感を読み手の心の奥底に植え付ける。
 日々変わる、現世である“まほろ町”を語る千の視点。風、鳥籠、バッジ、闇、嘆き、焦り、嫉妬、追放……千の視点の情念に入り込める読み手には充足感と読み終えた安堵を、そうできない者には退屈とあくびを与える(“文学作品”とはそんなものだと私は理解しているが……)作品である。
 
「腑抜けてオカマの集まりのようになってしまった」文学界に、「文学の可能性はまだ他にある」という、著者の挑戦的意欲を突きつける作品でもある。
 
 残念ながら、私の手元にない。引っ越しの時に失くしてしまったようだ……誰かおくれ。(2000/11/26)
『争いの樹の下で』
(上・下巻)
 
新潮社
1996年 刊
 濃密な森林地帯のさらに深奥に佇む千年樹である“争いの樹”の下で、死にゆく女から遺棄されるように産まれた“おまえ”……
“争いの樹”が千年このかた関わってきた人間達から与えられた回想と、近未来日本を流れゆく“おまえ”を通じて受け取るビジョンとで進められる展開は、現世を浮きに浮いた存在、この星の調和の連環からもっともかけ離れている存在である、淀みながら生きる我々人間への呪詛に他ならない。
 現実を直視せず、易きに流され、日々安穏とぬるま湯につかり、支配階級には搾取され続けると同時に骨抜きにされ、なす術もなく偽政者に巻かれることを良しとする人間たちへの刺幾である。
 しかしながら“おまえ”をして描く現世は、「この世はほんとうに生きるに値するものなのか」という問いかけを放った『千日の瑠璃』から、「何としても生きてみたいと強く強く願う者のためのみこの世は存在するのだ」という、生きる意力を持った人間のための世として肯定する。
 人間痛罵の雨あられであり、そういうものが苦手な方は遠慮した方が良い。自虐趣味の気がある方もまた然り。堅い背骨を持つ読者のみを選ぶ小説である。(2000/11/26)
丸山健二エッセイ成集
 
『安曇野』
『日々の愉楽』
『世界爆走』
 
文藝春秋
1992〜1993年 刊
 エッセイ成集。作家となって後、ラリー取材、砂漠の冒険旅行、タンカー乗船取材を描いた『世界爆走』、まっとうな文学作品を創り上げようと覚悟を決め、安曇野に住みつくまで、そして、住みついてからの日々を描く『安曇野』、バイク、犬、釣り、映画……著者のやりつくした趣味の数々を描く『日々の愉楽』。
 森羅万象を突き詰めようと行動する著者の情念は、戦いにも似た心の動きをみせる。
 シリーズ本である。あと一冊、『小説家の覚悟』を買いそびれた……誰かちょうだい。(2000/11/26)
『されど孤にあらず』
 
文藝春秋
1991年 刊
 エッセイ集。
 男が仕事をやり遂げる上での心構えを力強く語った作品。組織の歯車に組み込まれるよりも独りでやり抜ける、独創的な仕事を選んだ男は……
 作者の言う、“安曇野病”に罹った時によく読む。
 日々暮らしてゆくだけの僅かな信念が揺らいだときによく効く。覚悟を決め、決断するときのカンフル剤となっている。(2000/11/26)
『まだ見ぬ書き手へ』
 
朝日新聞社
1994年 刊
 これから小説家になろうとする者に向けたエッセイ集。
 釣行記であれホームページのコメントであれ、何かを書く時の指針にしている一冊である。映像文化に負けない表現力、読み手の想像力を喚起させる文章力を身につけたいと日々努力。遅筆でもいい、納得でき、幾許かの感銘を与えられるようであれば尚……(2000/11/26)
 
 追記。  現代日本文学はおもしろくない。個人の感覚の差を排除して考えてみても、おもしろくない。故に『チーズ本』のようなものが売れたり、ベタ甘のテーマと筋立てを持つ小説が売れたりしているのだろう。骨っぽい、しかし情念の塊のような、それでいて叙情的ではない、お手軽な会話などで場を薄めない、そんな小説は出てこないものだろうか。そんな書き手を待っているのだ。(2002/4/13)
『ぶっぽうそうの夜』
 
新潮社
1999年 刊
 行動と、視点と、独白と。
 家族を失い、定年退職前で退職し、そして自らの体を病魔に蝕まれる主人公は、かつて住んでいた故郷、山深い村にある実家の傍を流れる川岸、真夏の川岸に余生の生き場所と死に場所とを求める。「風村」「餓鬼岳」「底無し川」……象徴的な土地名をもって舞台をつくりあげ、そこに主人公の魂を彷徨わせる。真夏の酷暑が支配する山深い山村、忌むべき土着民の情念と因習の渦巻く山村、猟奇殺人犯の蠢く山村。そのなかで主人公は、死を選ぶのか、生に向かうのか、どちらに転ぶか分からない弥次郎兵衛となる。
 およそ普通の人間では思いつかない愚挙ともいえる行動に出る主人公、その彼の、乾湿入り混じる視線、その視線が垣間見ることになる事物についての夢想ともいえる独白によって、この物語りはすすめられる。
 これといった地名もない日本の山間地域で生きる、これまた名前のない登場人物たち。彼らの会話で構成される部分は殆どなく、具象を排除しながら、しかし抽象に偏ることもなく、風景はおろか心象までもを映像化するように描いてゆく。その構成の中心となるのは、主人公の歩みと視線と独白だ。作者のいう「自己抑制をたっぷり効かせた」文体は主人公の独白にとって最良のスパイスとなり、舞台となる山村の風景と登場人物たちの影をくっきりと描きだす。
 相も変わらず堅い文体。小説の手法ではないとさえ思われる文体。削り落とすところは徹底的に削り、盛り込むべきところはふんだんに手を入れる。必要、不必要の域を越えた力配分、主人公への共感は得られるのかどうか、舞台背景はどうか、筋立てはどうかなど、考える必要のない濃密さ。
 最終局面での主人公の行き方が案じられる。これは、良い方に解せば主人公の魂の次なる飛翔、悪く解せば安易な流れであると感じられる。もっと、想像を越えた世界に行き着かせたいと感じるのは、贅沢だろうか。(2002/4/14)
つんどくよんどく
『見よ 月が後を追う』『虹よ、冒涜の虹よ』(上・下)『逃げ歌』(上・下)『いつか海の底に』『白と黒の十三話』『生者へ』『安曇野の白い庭』


 

 

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