暗窟の影
 
 どこを中心とするか、どこに中心を置くか、誰にも知覚できず無編際に拡がりつつある巨大都市。あるものは壕に囲まれた、閑静すぎるほどの立地と種々多彩な草木に囲まれた一角を指してそこだと言い、またあるものは為政者の集う建物を指してそこだと言い、またあるものは生真面目に中心の中心たる一点を指してそこだと言う、極めてまとまりのない大都市。
 政府の施策とは裏腹に、どこまでも下がりゆく出生率。これに反するように、地方から流入してくる人間たちによってもたらされる無秩序な都市型人口爆発。これを防ぐべく、あるいは彼らを呑み込むために拡がりゆく都市面積。
 最深度の地中に潜り根を張る地下大構造物を育み、冲天する勢いでのびゆく超高層ビルを成長させ、その間を縫うように高速道路と環状線道を張り巡らせ、東にひらけた湾奥の浅海には、インクを流すようにじわじわと、埋め立て地とメガ・フロートとを拡げてゆく……新進の建築家たちの作る建築模型を継ぎはぎで掛け合わせたような、乱雑なままに育ちつつある大都市。
 為政者にとっては票田となり、官僚と小役人にとっては行政の実験場となり、被支配層にとっては糊口を得る場となるこの都市は、この世の全てを、人の魂魄さえも取り込み溶かす坩堝になると同時に、その熔融を拒むかのように呑み込んだ全てを掃きだめに流す、求心力と遠心力を秘めている。
 その都市の一部の、決して頭脳や脊髄といったものにはなり得ない、むしろ内臓か、あるいは生殖器のような役割を果たしている不夜城にも似た大繁華街は、大勢の若者をたむろさせつつ社会の裏相に追いやり、長いものに巻かれるしか道のない多くの勤め人に仮初の活力を与え、抗えぬ力に連れられ、アジアの他の国からやって来た娘達には酷薄な運命を見せつけ、流れついたやさぐれ者たちには、適当な隠れ家と食ってゆけるだけの金づるを与えている。
 そしてその繁華街の、けばけばしい光りが届かなくなるあたり、乱雑を極めた区画処理がだいぶ落ち着きを見せるあたり、高層マンションや雑居ビルなどではなく、庭木や門柱を構えた塀をもつ家々の多くなるあたりに建つ、二階建ての木造アパートの一室に忍びより潜む、闇。
 
 薄いカーテンのひかれた窓から漏れ伝わる夜明けの気配に気がつくのがはやいか、目覚めてくる意識の立ち上がりがはやいか、どちらか判別できぬまま、朦朧としながらうっすらと眼を開ける。
 三日間続いた日雇い労働、廃屋解体作業の疲れと筋肉痛、昨夜の乱痴気騒ぎで呑み過ぎた酒の引き起こした二日酔い、路地裏に網を張るやくざの見習いから手に入れた合法ドラッグの残滓。これらの相乗効果により、筋肉は乳酸を分解できずに強張り、内臓は正常な消化吸収や循環活動を遮られ、意識は混濁と覚醒の狭間を彷徨っていた。
 日雇い斡旋業者の派遣事務所には内々密にしなければならない、内々に廻ってきた仕事だった。釘を踏み抜く者もなく、重機操縦者の不注意に巻き込まれる者もなく、予定通りに終えた作業。十人ほど集まった者たちの仕事ぶりが気に入られたのか、相場よりも思いのほか多くの報酬を手に入れることができた。現金で支払われた、不況下ではあるが気持ちの入った報酬、その勢いを駆って開いた夜桜の咲く公園での酒宴、早咲きの桜に心浮かれる公園での夜桜見物、ただそれだけで終われば良しとなるものが、誰かが手に入れてきた向精神薬により、盛り上がりというよりは狂乱といったほうがよい酒宴となった。
 昨晩の騒乱めいた宴の終焉から何人、この、たいしてよくも知らぬ人間の部屋になだれ込んできたのか。
 少し、寒い。
 三日間、着の身着のままの長袖のポロシャツとフリースのジャケット、垢と膩の染みついた埃まみれのジーンズ。靴下も履いたままだ。たいして冷え込む事もなくなった春先のこの頃だが、布団も毛布も掛けることなく、酩酊と幻覚により昏倒に近い状態で眠り込んでしまった体は冷えている。
 寝返りを打ったままの横向きの視野。
 窓から入り込む街灯と夜明け前の光り。薄明かりともよべない光り、その中に畳六畳の居間に二人の男の寝姿が目に映る。部屋を占めている人間の放つ体臭と、古畳にはびこるカビの饐えたにおいが鼻を突いてくる。それらのにおいに刺戟され、昨夜、天啓のようにうけた強烈な幻覚の残像が、風呂に入ってもいなければろくに休んでもいない疲労困憊の躯のなかで蘇り、暴れはじめ、目覚めきっていない身体と感覚と精神を嘔泄の汚濁に引きずり込んでゆく。束の間の宴が終わった頃から幾分時間が経ったとはいえ、血中に溶け込んだ毒素たちはまだ暴力的な争乱を身体と精神の各所に引き起こす。
 街はゆっくりと目覚める。
 薄明のなかでは確たる思想も持たない新聞配達員がバイクを走らせ、官権の御託宣を伝えることしか手がなくなった大新聞を配り、野生とはいわく言い難い都会住みのカラスの群れが鳴き交わしを始め、繁華街から生み出された膨大な量の生ゴミを漁りにゆく。近隣にまたがった環状線を行き交うクルマの音が徐々に大きくなり、淀みない流れをつくるとともに、いくぶん規制が強まったとはいえまだまだ甘ちゃんな排ガス規制の元で、多くの違反車と違反者たちが炭素系微粒子と重金属微粒子を排出し続けている。
 太陽は地平を越えて昇る。
 一億五千万キロの彼方の宇宙空間で続いている核融合反応の放つ光りは、百三十九時間でこの星に届く。年々弱まりつつある地磁気や破れかけたオゾン層、細胞膜のように頼りない薄膜の大気圏は、この星が浴び続ける有害な放射線や宇宙線をいっしんに遮りはね返し、もってその恩恵を地上に、そしてこの街に、このアパートの一室にもあまねく届け続ける。
 どうやらこの世で無償とされるものは、遥か彼方の恒星が放つ光りだけなのかも知れない。しかし、人々の多くはそんなことには一切躊躇せず、あいも変わらず日々を窮々として暮し、あいも変わらず破壊の元凶である物欲と消費欲とに支配されている。
 胃の辺りに重くのしかかる吐気と、こめかみのあたりに根づく疼痛に苛立ちながらも深呼吸をし、その一呼吸ごとに意識を引き戻してゆく。これと同時に甘酸相交じる腐臭が、寝返った背後から漂ってくる。それとともに軽い胃痙攣を伴う吐気がむかむかと湧き起る。もしやと思い強張った筋肉と軋む節々を伸ばし、布団も何も掛けていない半身を起こして捻り、寝返っていたほうを見遣ると、案の定、隣に寝ている若者のもどした吐瀉物のひろがりが薄暗がりの中に見えた。
 体を起こしても吐瀉物から立ちのぼる臭いとはまた別に纏わりついてくる臭いがあり、ふと気になった肩口をまさぐると、ぬるりとした感触と共に異臭を帯びた粘液が右掌にこびりついてきた。瞬間、そいつを叩き起こそうかと怒りを沸騰させたが、意識の混濁した者に手をかける阿呆らしさと憐憫、この二つの感情に挟まれ、あてどなく、霧散するように怒りが萎えた。
 汚れた右手をどこにも触れないようにそっと立ち上がり、窓から滲み出るような薄明かりの中で廻りを見渡す。
 テレビとコタツ。幾つかのカラーボックス。これだけの物がちんまりと部屋に置かれている。開け放たれた押し入れには、洗っているのかいないのか分からない山となった衣類。床には同じ年嵩の若者が四人、寝息をたてて寝転がっている。
 ひょっとしたら息の根を止めてしまった奴もいるかもしれない、そうも思わせるかの如く、誰もが今だ昏迷の中をさまよい続けており、起きる気配はそよともない。
 吐気と頭痛は根強く残り、更に、時折やってくる脳そのもの、精神そのものを揺らし続ける合法ドラッグの薬力によりその場に頽れそうになるのを抑えつつ、部屋の灯りを点さぬまま、開け放された襖で仕切られた隣の板間に向かう。
 ちいさな板間に一つしかない摩りガラスの小窓からは、街灯の灯りと明け方の光りが入り混じりながら弱々しく射しこんでいる。その薄暗い室には、壁際に設えたカラーボックスや立て掛けられたスノボ板、石油ストーブ、脱ぎ捨てられたジャケット、パンパンに膨れた無数のゴミ袋などが浮かびあがり、さながら魑魅魍魎の住処にも似た闇が支配している。
 小窓からの薄明かりは、なおも闇を際立たせる。
 脱ぎ散らかされた靴が山となった上がり框の横に設えた流しには、いつ頃焼いたのか分からない肉の焼け焦げがこびりついたままの、テフロンがすっかり禿げたフライパン、どこが錆びでどこが汚れか分からないステンレスの鍋、欠け茶碗、曇りに曇ったガラスのコップなどが洗われぬまま放ったらかしにされ、流し口のネットに溜まった生ゴミと共にかすかな腐臭を放っている。流しの正面、薄日の透けてくる小窓の端には頑健そうな大型のゴキブリ、闇の化身のように真っ黒なゴキブリが一匹、長く滑らかな触覚をそよがせて自身の廻りの風の流れを探るかのように佇んでいる。
 かれらの、息づかいまで聞こえてきそうな闇。
 よろめく足取りでゴミ袋を蹴飛ばしながら流しに近づき、左手をのばして蛇口を捻り、迸る流れに汚物まみれの右手を差し入れる。
 三月の終わりとはいえ水はまだ冷たく、臭いまで落とすよう丁寧に流していると手先がかじかんでくる。その、手先の一点に感じられている冷たさの刺激が末端から伝わり全神経を揺さぶり、汚物を手にした驚きでおさまっていた嫌悪感が再び湧きおこってきた。
 手を洗うの水を止め、流しに突っ伏すように屈み込む。少し待ってすぐにこみ上げてこないことを確かめる。しかし、微弱な電流を流されているような胃の痙攣は続き、それは、呼吸回数を落とし、血流を抑えさせ、顔面の血管を浮き上がらせると同時に蒼白にさせる。
 口中の唾液腺も吐気につられて活発に、絶え間なく唾液を分泌し始め、その勢いは止めどもない。
 便所に入るかどうか、逡巡する間もなく吐液がこみ上げてきた。
 痙攣と嘔吐を繰り返す内臓とそのまわりの筋肉の煽動と共に、体温そのもののあたたかさを持つ、甘酸入り交じる消化液と、それに包まれた未消化の食物の欠片が呼吸を押し退け、食道を一気に逆流して口中と鼻孔に溢れ、流しに吐き戻されてゆく。
 しぜんと涙が溢れ出すほどの悶絶の極み。辛酸っぱい味が口中にひろがる。
 胃と食道の痙攣がおさまり、吐瀉物をあらかた出し切ったところで一息つき、流しに溜まった残滓を水で流す。掌に水を掬い口に含み、口中に残った滓を洗い流すとともに水を呑む。歯茎、咽頭、食道、胃、水が触れる内臓粘膜はその冷たさに蘇生し、胃に落ちた水はすぐさま吸収され、脱水症状をおこしている全身に行き渡らせる。水を口に持ってゆく度に無精髭が掌に触れ、紙鑢の肌触りを伝える。
 胃の痙攣がおさまり、出すものを出し切ったところで人心地がつき、濡れた手をジーンズで拭う。ジャケットを脱いで汚物の付いている肩口を洗い、ストーブに被いかぶせた。居間の様子を窺うと、この気配と物音を感じて目覚める者はおろか、寝返りを打つ者もいなかった。
 いまさら他人の吐瀉物のうえに寝るわけにもいかない。
 流しの前にかさばるゴミ袋を押し退け、座れるスペースを作り、痩躯をゴミ袋の谷間に押し込むようにして座りこむ。床板から伝わる冷たさは嘔吐後の震える躯を落ち着かせ、意識と動悸を正気に立ち戻らせたが、深奥に沈潜した吐気は再蜂起の機会を眈々と窺っている。
 シャツの胸ポケットから潰れかけた煙草のハードボックスを取り出し、箱から一本摘み出して銜え、続けて同じポケットからライターを取り出す。が、ない。あちこちのポケットを探し廻るが見つからない。先刻の寝床に落としたのか、取りに行こうと立ち上がったところで、ストーブの脇に置かれているマッチ箱を見つけた。着火用に用意したのだろうか。中身を確かめるために手に取り振ると、数少ない本数のたてる乾いた音が聞こえてきた。
 マッチを摩る。
 鼻をつく微かな硫黄の臭いと共に燃え立つ炎を煙草の先に近付け、火を点し、煙草を燻らしはじめる。
 生まれる灰を床に落とし、生まれる煙りを薄明かりの中に漂わせる。細長く、しかし力仕事のために皮がごつくなっている、脱水症状のためにいっそうしわ枯れて見える指先に煙草の煙りの匂いがしみついてゆく。
 流しの下の戸袋に背をもたれ、昨日の作業の疲れで痛む節々を板間に横たえ、立て膝をつき、膝頭に煙草を持つ手を延ばして置き、燃えながら灰を生み出し続ける煙草の、密やかに赤熱する先端とそこから立ち上り虚空に散る煙りを見つめ、混濁と覚醒をよろめきながら行き来する意識のなか、これまでの来し方を思い返すともなく思い返していた。
 高校を卒業し、ちょうど二年が経つ。
 いつから、いつ頃からこうなったのだろう。すくなくとも学校を出るまでは、道は幾つもあったはずだ。見つけられなくなっていたのか、選ばなかっただけなのか、まったく分からない。大学を目指せる成績を取ることも、就職するに足る内申を作り上げることもせず、専門学校に行くような目標を見つけだすこともしなかった。
 卒業前に学校向け求人外の幾つかの会社の入社試験を受けたが、昨今この国に吹き荒れた構造不況に絡め取られるふりをして就職浪人を決め、半ば確信犯的にこの状態を選んだ。いま答えるとすると、こんなところに落ち着いてしまう。結局は自堕落な自身そのものに押し流されてしまったのか。
 それからは両親の住む自宅からアルバイトに通う時期もあったが、時間の縛りや上意下達の職場関係が気に障り、長くは続かなかった。やがて、アルバイト先で知り合った基より亡頼の徒である仲間の誘いに乗り、いきおい気侭無責任の姿勢でこなせる日雇い労働に身を置くことになった。それと時を同じくして自宅にも寄りつかなくなり、流浪者同然といえば同然の、住処は同じ日雇い斡旋業に登録している仲間のアパートであったり、たまさか付き合うことになった女の元であったりと、淀みの淵を行き来するだけの沈みきった、立つ瀬もなければ浮かぶ瀬もない、常に汲々とした、反面、気楽な流れに身を任せることしかしなくなっていた。
 日々の享楽を得たいが為に思い立ったように働き、過咎を引き起こした時にはほとぼりの冷めるまで日々をうっちゃり、難事に巻き込まれた時にはひたすら逃げ回り、繁華街の影や隙間に根付いている、もっと凶暴で際限なくいい加減な連中とくらべればまだマシだという言い訳をし、しかしそれは欺瞞に過ぎないことも知っている。若くて体の動くことを除けば街を闊歩するちんぴらどもとなんら変わることない、法や社会の絡め手をうまく避けているかのように見えるが、実のところがっちりと底辺に抑えつけられ、搾取され続け失い放棄するだけの生活。
 このところ息詰まりを感じていることも確かだ。その証拠に昨晩の荒れようときたらどうか、この生活を始めて以来、酒を呑み始めて以来初めての事だ。
 クスリの勢いもあってか、酒狂の徒と化した。手始めに廻りの門塀や街路樹に当り散らす。一発一発の蹴りは相当な破壊の意力を持っている。続いて今の胸中にある遣りきれぬ念いをぶちまける。仲間たちの心中に蟠っているものも一緒くたにしてだ。
「このままで満足か!」「同じような年嵩の奴にこき使われて良しと思っているのか?」「社会の淀みに沈む今のままで良いと思っているのか?」「同じ歳の、マジメに働いている奴らとの差を測ってみろ!」
 この暴走に和した仲間が、向精神薬の勢いを借りて嗜虐の限りをつくす。繁華街ではなかったために警察沙汰にまで至ることはなかったが、それでも三枚の門扉を蹴破り、手の届く街路樹の枝という枝をへし折った。暴徒と化さなかったのが不思議なくらいだ。しかし、いくら門扉を蹴破ろうとも自身の心の殻は蹴破れず、街路樹の枝をへし折ろうとも社会の絡め手を折ることなどできなかった。
 やんどころない。
 何口目かの煙草を吸い、その気持ちと自身のこれまで、そして展望の無い将来とを混ぜこぜにして煙草の煙りを吐き出し、火を揉み消さないまま頭上の流しに投げ入れた。
 もう一本煙草を取り出し、銜えて火を点け、深々と吸い込み、今、身を横たえている場所を見渡す。
 人間以外のものの住処となっている乱雑さを極めた、闇の支配下にある室。玄関の、上がり框にまではみ出している、腐臭を漂わせている、黒色を基調とした靴の山。それら黒色と相対するかのような赤い灯油缶。冬を越して火を入れられなくなった古びたストーブや、どこからか拾ってきた腐りかけたカラーボックス。流し口のネットに溜まった生ゴミの中で蠢く凶悪な細菌類や病原菌類。夜な夜な徘徊するゴキブリやネズミ、あるいはそれら以外の得体の知れないものたち。
 怨霊の住処とさえなっている。
 天上や柱の滲みにあらわれる影。この部屋で、ずっと以前に起こった痴話喧嘩からの刃傷沙汰で殺された女の恨霊、半世紀以上も前の戦争の禍難で死んでいった者たちの地縛霊。さまざまな怨霊たちを呼びよせている。
 それらの不穏を紛らわすかのように、再び深々と煙草を吸い込む。
 闇に漂っている霊魂まで吸い込んでしまったのか。
 少し目眩を感じる。
 今の身体の限界量を越えるニコチンとタール。
 収縮する動脈と静脈と毛細血管。
 再び吐逆の争乱を引き起こす向精神剤の残滓。
 アセトアルデヒドの呼び起す吐気。
 全身を襲う痙攣。
 徐々に視野が狭まる。
 麻痺してゆく神経系と五感。
 空ろになる思考。
 混濁する意識。
 幻覚……とはいい難い“何か”が目覚める。ゆっくりと忍び寄ってくる。
“何か”は静かに諭すように語りかけてくる。
 
 このままでいいのか
 
 体の動けるうちはいいとしても 歳をとったらどうするつもりだ
 
 歳相応の生きかたをしろとは言わん だが……
 
 この時代の官史と公吏を甘くみているのか
 
 連中は持たざるものに対しては横柄なまでに強気だぞ
 
 よしんば官権の手から逃れたとしてもだ
 
 結局は巨大資本の食い物にされるより道はないぞ
 
 他人の恩情などあてにするな
 
 恩情をかけるその眼には忌むべき蔑視が含まれていることを知れ
 
 退路を断って追い込まれることでしか もはや先には進めんぞ
 
 追う者か 追われる者か どちらかになってみたらどうだ
 
 いいかげんに澱みの淵から出てきたらどうだ
 
 向うに寝転がっている奴らは心の分身だ
 
 怠惰と欲望と暴力の化身ではないか
 
 生きる価値のある世なのか それとも
 
 この世で生きるに値する命なのか
 
 手始めに奴らを亡きものにしてみたらどうだ
 
 そこのフライパンに残った焼け焦げ肉のようにだ
 
 そうすれば追われる者だぞ
 
 そうでもしなければ心の殻は破れんぞ
 
 やれ 動け 迷うな 一歩踏み出してみろ
 
 五十歩百歩などとは考えるな
 
 意識が満ち潮のように朦朧の闇から蘇る。目が醒めた時には煙草は燃え尽き、焦げたフィルタだけが指に挟まっていた。
 先の語りかけは何なのか。幻覚なのか、霊魂の仕業なのか、それともうつつか、掴み倦ねる。記憶をまさぐり“何か”の声を反芻する。途端に声の持つ強力な意志がするりと精神に滑り込み、魂に浸透してゆく。
“何か”の意志により、適切に増減され処理される脳と体内の神経伝達物質。
 然るべきところに然るべき神経伝達物質を送り届けてゆく。思考はおろか筋肉さえも“何か”の支配下におかれる。
 たちまち周囲から快哉が沸きおこる。ジャケットを被されているストーブは呵々と笑い、ゴキブリは脚と触覚と羽根をざわめかせて踊り、流し口のネットに溜って窮厄としていた細菌類は極小の体をうち震わせ、数千数万という仲間内で騒乱の極みに昇り、彼ら自身の持つ毒性を倍加させる。その彼らが好逆のうちに巻き起こす歓喜に圧されて立ち上がる。
 一心に紙縒を撚る。
 トイレから持ち出したトイレットペーパーを使い、何かを念じるかのように結い続けるその長さはやがて、板間を横切る長さとなっている。
 マッチはまだ残っている。
 静かにゆっくりと立ち上がり、玄関横の灯油缶の蓋をあけて中を確かめる。鼻を突く揮発油の臭い。使われないままの灯油は半分以上残っている。紙縒を輪にしてまとめ、その上に灯油を少しこぼす。
 靴を抜き出して履きやすいように並べ、灯油缶の蓋を軽く締め、襖の向う側、死んだように眠り続ける同年の若者たちを見遣る。
 未だ目覚める気配はない。
 灯油缶と紙縒を持ち、音の一つも立てぬまま居間の入り口に向かう。一つの物音をも立ててはいけない。呼吸を整え、眠っている者の一人がたてている寝息にあわせて居間に入る。静かに灯油缶を置き、蓋を開け放つ。たちまち揮発油の臭い、生物の臭いとは正反対に位置する鉱物の臭いが部屋に充満し、若者たちの汗や垢、脂や吐瀉物の匂いと拮抗する。
 入り口に佇んだまま四人を見下ろす。寝息も殆ど聞こえず、呼吸運動も目立たないほどだ。揮発油の放つ鉱物臭に気づいて薄眼を開ける者もいなければ寝返りを打つ者もいない。それどころか誰もが昏迷の闇の中を彷徨っている。紙縒を灯油缶の中に入れ、その先端を油面まで漬ける。玄関まで延ばしてゆく紙縒は、闇に薄白く浮かぶ導火線だ。
 ストーブに掛けていたジャケットを取り、玄関に行き、山となっている靴を踏みつけて履く。
 音を立てずドアノブをゆっくり廻し、ドアを少しだけ開ける。冷えた、春の夜明けの外気が伝わってくる。廻りの家々の庭に植えられている草木の若々しい匂いも交じってくる。聞こえてくる街の音は、遠く近くの環状線を走るクルマの音のみだ。新聞配達員のバイクの音も、朝早く起き抜けた老人が窓を開け放つ音も、主婦が台所で刻む朝餉の準備の音も、聞こえてこない。この都会随一の早起き者を自任するカラスたちは、とうに繁華街へと就餌に向かっている。声をかけるものがいるとするならば、鋭敏な鳴き声のシジュウカラくらいなものだ。
 マッチを摩る。
 同時に灯るその光りは、手暗がりとはとうていよべぬ手の中の闇を明るく照らした。
 
 太陽からの光りは低く投げかけられている。
 すべてのものを慰撫するように地上を被いゆく。
 地平と接する低く薄い雲間から射してくる陽射しは軟らかく、外気は湿り冷気を含んで体にまつわりついてくる。地上は、あまねく届きはじめた光りと、乱立する高層建造物の織りなす長大な影とが拮抗している。
 絶境の谷間に光りが射すように、区々の谷間にも、都市の大動脈と呼ばれる幹線道路にも、細くくねった路地にも、光りが射してくる。
 環状線ではあいもかわらず、疾駆するクルマの群れが波を作っている。その勢いは真昼のものと変わらず、むしろ早朝だけに力が有り余っている。その波を押し退けるかのように消防車輌が数台、赤色の回転灯を点灯させると共に急を告げるサイレンをけたたましく鳴らしながら雪崩をうって走りゆく。それぞれのうち鳴らすサイレンの響きは尾を引きながらも次第に遠ざかり、やがて通りを走るクルマの騒音の中に溶けるように消えていった。
 やがて繁華街へと続く、煉瓦敷きの路地。
 棄てられたビラやティッシュが路上に散乱している、昨夜の馬鹿騒ぎの名残りが色濃く残る繁華街の裏通りをゆく。いましがた閉められた夜の店からは、髪の毛を金色に染めた男の従業員や、着飾りながらも萎れはじめている女たちが、昨夜の宴の酔後の勢いをもって戯れながら出てくる。その傍らでは浮浪者が、カラスに漁られた後の生ゴミのおこぼれを拾っている。
 一足先に就餌を終えたカラスは群れ集いながらビルの外階段の縁に佇み、満腹の恍惚感に喜悦の鳴き声を上げ、これから繁殖期にむかう勢いをあからさまな態度であらわし、人間の目と手の届かない場所に巣を架ける算段を立てる。翼の黒さとは裏腹に、彼らの魂は生への熱情で溢れ、真白に輝いている。
 細い路地を流れるように通り抜ける長身痩躯の人影。
 カラスの群れが一斉にその影を注視する。いつもは騒がしい彼らが、一声も啼くことなく、羨望とも畏怖ともつかぬ眼差しで注視する。みな押し黙ったままだ。羽音も立てない。
 彼らの見つめる影の色は夜の街に屯するやさぐれ者の身につきまとう黒ではなく、むしろ彼らの羽色にも似た黒色、いかなる光り、たとえば神の光りをも撥ね返す意力を持った漆黒だ。みな魅入られている。
 影は淀みなく滑らかに歩み続ける。
 居住まいを正せる闇を探しているのか、それとも墓穴たり得る深い闇を探しているのか、低く射し始めた光りを避けるかのように歩いている。
 やがて薄暗闇の支配する地下鉄の入り口へと、その姿を消していった。

 

 


 

 

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