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梅雨時に低気圧がやって来ると、夜、途端に寝つかれなくなる。 理由はふたつある。どちらもだいぶむかし、交通事故で痛めた腰、そして左足のくるぶしの骨折だ。腰には神経痛が残っている。腰から左足に向かう座骨神経痛からはじまり、膝の裏まで鈍い痛みが拡がる。時として背中の筋肉を強張らせもする厄介者だ。左足首の関節をくるりくるりと廻すと、まるで砂を詰めた袋を揉むような感触をおぼえる有り様だ。すねと足首の間から、しくしくと泣くような痛みが伝わってくる。 日中は仕事の流れで紛らわせることもできるが、それでも気になる痛みだ。ましてや夜になると尚更だ。 眠れぬ理由はまだ他にあるのかもしれない。 道路のアスファルトや隣家の屋根を叩く雨音、風雨に煽れざわざわと音をたてる、周囲に植えられている庭木の葉、近くを通る幹線道路を走り抜けてゆく車に跳ねられる雨音……。 エアコンなどつけていない安アパートの、寝床に設えている四畳半。半間の窓を網戸にして開け放っているせいもあるのだろうか、窓から入ってくる物音すべてに敏感になる。網戸を叩く小さな羽虫の羽音までも聞こえてくるようだ。 隣で布団を並べて眠っている女の寝顔を、薄暗い橙色の常夜灯の元で覗き込む。 安らかな寝顔だ。 口を薄く開け、小作りな、やや丸顔の頬と薄めの唇をすやすやと動かしながら寝息をたてている。どうしてこんな重く湿った低気圧の空気の中、落ち着いて眠ることができるのだろうか。無理矢理起こして訊ねてみたい気持ちに駆られる。しかし、そんなことをしたら明日の朝食を抜かされるか、さもなくば何かを強請られるのがおちだ。 仕方なしに、成功したかどうかは眠りについてみないとわからない、至極面倒な眠れぬ夜の就眠儀式を行なう。 頭の中で羊を数えはじめる。呟きもせず唇も動かさず、ただひたすらに頭の中で羊の数を数えはじめる。 よくある、柵を飛び越えてゆく羊たちではない。想像の中につくられた牧場の羊たちを、出荷のためのトラックに乗せてゆく、その数を数えてゆくのだ。協同組合から廻されたトラックに、十頭ひと組、スロープとして渡した板を登らせながら一頭づつ丁寧に乗せてゆく。生後八ヵ月の、食べごろに育った、食用の仔羊たちだ。今晩出荷する羊の数は何頭になるのか……これも眠りについてみないとわからない。何せこの牧場には無数の羊たちがいるのだ。羊舎にも餌にも不自由しない。牧羊犬も数尾飼っている、背の低い山腹につくられたなだらかな丘に広がる牧場だ。 十六台目のトラックが出ていった時、ふと、交通事故に遭う前に付き合っていた女のことを思い出す。 その頃はまだ学生だった。その女と初めてラブ・ホテルに入った時のことだ。すこし年上の社会人。その女の運転する軽自動車。フロントガラスを往復するワイパー。その日の夜も雨が降っていた。もしかすると、こんな梅雨時ではなかったかとも思う。 一通りの情事を終わらせてベッドの中で戯れている時、枕元に置かれている有線放送の番組表を手に取って見た。アルバイト先の店に置かれた有線放送には十二チャンネルしかなかったのだが、その番組表には四百四十チャンネルもあるのに驚いた。 こりゃあ凄いと、けらけら笑いながら女に見せた。女はゆったりとした笑みを浮かべながら番組表を手に取り、あるチャンネルを指差した。そこには「羊」とあった。試しにかけてみると何のことはない、抑揚のない男の声で、「羊が一匹、羊が二匹……」と数えてゆくものだった。そのチャンネルに入った時に数えられていた羊は四千と七十六頭目だった。 「眠れるかしら?」 「さあね」 「どこまで数えるつもりかしら?」 「聴き続けてみよう」 面白がる女に素っ気なく応えた。そして何頭目かの羊が数えられた時に、すぐ横から、今夜、隣の布団で眠る女のたてる寝息とそっくり同じ音色が静かに聞こえてきた。 上になり長い黒髪を乱しながら喘ぐ姿、ふくよかな乳房、卵型の顔と切れ長の眼、少し厚めだが横長に整った唇……。今、隣で眠っている女とはまったく違うタイプの女だったが、付き合うことになる女は、どうしてこうも毎度のことながら寝付きが良いのだろうかと不思議に思ってしまう。 その夜、数えられた羊は……覚えていない。最後まで聴き続けることなく寝入ってしまったのだ。 まだ早い朝、カーテン越しに薄日の射し込むラブ・ホテルの一室で目覚めると、かけっぱなしにしていた有線放送からは寝る前と変わらずに男の声で数えられている羊たち、九千九百八十七頭。いったいどこまで数えるのだろうか。一万、いや、もしかしたら十万まで数えるのだろうかと思いながら、すぐ横で眠っている女の寝息と共に、スピーカーから流れてくる羊の数を追ってゆく。そして九千九百九十九頭まで数え、あと一頭で一万というところで突然、数を刻み続けている男の抑揚のない声が、とぼけたような声に変わる。 「羊が九千九百九十九匹……あれぇ、忘れちゃったぁ。……羊が一匹、羊が二匹……」 一万頭まで数えられなかった羊と、再び繰り返される抑揚のない男の声。そして女が眼を覚ましてくる。 「あれ、戻っているじゃない。ね、聴いていたんでしょう。どこまで数えたの?」と尋ねてくる女に対して、 「九千九百九十九匹まで数えて、『ああ、美味しかった』と言って、また一匹目に戻っていったよ」と、嘘をつく。 「ええっ、ぜんぶ食べていたっていうの?」 女はベッドのシーツを剥ぎ取らんばかりに驚いてがばりと飛び起きた。その驚きざまと、薄日の光の中に晒された裸体の美しさに圧倒されてしまい、すぐに本当の顛末を教えてやった。 百五十台目のトラックに羊を積み込み、次のトラックに七頭目を乗せている時だった。不意の客がやってきた。この山のふもとの町で焼肉料理屋を経営している男だ。 「いいヤツはいるかね」と訊ねてくる男。訊ねてはくるものの、見立ては男自身で行なう。これが毎回、ピタリピタリと当たりを買い取ってゆく。そして料理屋では、肉はもちろん、内臓や骨際の肉や骨までもを上手く料理し、驚くほど安い値で客に供しているのだ。ただし皮だけは知り合いのなめし屋へと渡しているらしい。 この牧場に屠殺器具は置いていないので、ここでは解体できない。近くの食肉処理場へと行き、そして処理工程の裏に廻って屠殺し解体し、可食部と非可食部とに分け、店に持ち帰るのだ。 数日後には食肉処理場に勤めている数人に、そしてこの牧場の食卓にも、その男からの恩恵がもたらされる。 男が買い取っていった三頭の羊も勘定に入れる。ここで百六十頭目だ。それでも睡魔は降りてこない。そぼ降る雨の中、人界へとやってくるのが億劫になっているのではないかと思うくらいにもどかしくなる。なす術なく、再び羊を数えはじめる。そして焼肉料理屋の男が買い取っていった羊を含め、二百三頭を数えたところで協同組合への出荷分に到達してしまった。 しかし今日は、もう一方の小口の客も数名、やってくるだろう。厳選された食肉しか商わない肉屋、同じようなコンセプトで商売をやっているデパートの精肉部門、先の焼肉料理屋の男のように、これまた自分の眼鏡に適う肉しか扱わない料理屋、それらの店の仕入れ担当の連中だ。 彼らはこれまた先の焼肉料理屋の男と同じように、事前の連絡も無しにやって来ては自らの目立てで羊たちを買い取ってゆく。目立てに適うものがなければあっさり引き上げてゆくと聞いている。幾つかの牧場と契約しているのだ。商魂どうのこうのと詮索する前に、いっそ潔くも見える。 そんな懸命な彼らでも、どう足掻いても件の男の先は越せない。いちばん良い羊を買ってゆく者は、その男のような独立心の強い、一本芯の通った人間なのかもしれないとさえ思わせられる。 彼らが買い取っていった羊は、ひっくるめて二十一頭だった。これで二百二十四頭を数えた。 そろそろ晩飯時だ。 西に傾きかけた陽が、南斜面のこの放牧地に影を落す。ウグイスのさえずりと共にホトトギスの聞きなしが聞こえる。山棲みのカラスたちが塒帰りをはじめている。柵の上に羽虫が塊を作り、ゆらゆらと飛びながらたむろしている。 指笛を吹きつつ手招きで犬たちに指示を出し、羊たちを羊舎へと追い込んでゆく。全ての羊を追い込んだところで、先の焼肉料理屋で働いている若者が使いとしてやってきた。いちばん良いもも肉とあばら肉、下処理され、すでに煮込まれているレバーと胃袋とが入った鍋を持ってきたのだ。いつものようにその若者は言う。一週間後くらいに鍋を取りに来る。そして男からの礼を伝えて言う。いつも良い羊をありがとう、と。 もも肉とあばら肉は適切な大きさに切り分けられている。まるで炊事場にあるフライパンの大きさを知っているかのようだ。 もも肉はレアに焼き、あばら肉は素焼きにして犬たちへの食事にする。骨付きの肉は久しぶりなので、彼らはがっつくように食べにかかる。このときばかりは待ても何もあったものではない。 先ずはもも肉を味わう。 隣の布団の中で寝息をたてている女の、痩せすぎてもいず太ってもいない、ちょうど良い具合に肉のついた太ももや腹筋のような歯触り、そして、羊臭さの少し残る味が口中に拡がる。 次に温めなおしたレバーと胃袋の煮込みだ。 これもまた隣で眠っている女の、小振りな乳房の肌触りを想わせるようなレバーの口触りを愉しみ、続いて小刻みに包丁を入れた胃袋の細切りを三、四本まとめて口の中に放り込む。その、ぬるつきの残るコリコリした食感は、まるで女の小陰唇か陰核をねぶっているかのようだ。 店の切り盛りで忙しいのか、少し手を抜いたのか、あるいはあの若者に調理をさせたのか、多少の生臭みが残っている。ここのところ、こういう味が多くなってきた。おそらく先刻の若者に調理をさせ、彼を育てているのだろう。 食事をすすめてゆくうちに、ようやく睡魔が降りてきた。寝入りばなの夢うつつの中、夢見はじめたまどろみの中で想い返すのだ。あの時数えられなかった羊を。そう。ラブ・ホテルの有線放送で数え忘れられてしまった一万匹目の羊はいま、この食卓に屠られているのだ。 |
了
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