第5話 突然の来訪者



 慎司が見たいと指した映画は、今一番人気だと思われるアクション映画だった。あまり映画に詳しくないあたしでさえ知るハリウッド俳優が出演していて、そのタイトルと主役は映画館にも大きく祭られている。
 昨日帰ってくるのが遅かったのに、慎司はこんなことしていていいのかな。あたしとなんか一緒に歩いていていいのかな。そればかりがあたしの頭をぐるぐる回っていて、ただ歩いているだけで何人もの女の人を振り向かせるスーツ姿の慎司の隣を冴えない制服で歩く自分自身を情けなく思った。
「杏」
 何を察知したのか、突然慎司に手を握られてドキっとした。もちろん、慎司にはあたしなんてただの子供にしか写らないだろうけれど、そんな大きな手で握られたら心臓つぶれちゃいそうだよ。
「なんでそんなにうつむいて歩くんだ? 足元、何か気になるか?」
「...そんなんじゃないけれど」
 あたしの声は思ったよりも低くてぶっきらぼうで、可愛くないなって思う。だけど、甘えたら駄目。止まらなくなるのは、誰よりあたしが知っているんだもの。慎司は何も知らないから無責任にそう言えるだけで、きっといつかあたしを突き放したくなるよ。あたしはそういう存在、そんなこと知っている。
「ねえ、お兄ちゃん、あたしたちって周りからはどんな風に見られているかな」
「え...? うーん、そうだな...。俺はスーツでおまえは制服...、やばい、オヤジが可愛い女連れているって思われているかも」
 ガーンとショックを受けるふりをして慎司は言う。何を言うのかな。誰がオヤジよ。
 だけど、もともと両親は違うから顔なんて似ていないし、兄妹にも見えない。手、つないでいるし、誰か一人だけでもあたしたちをカップルだと思ってくれないかな。恋人だとしても不自然じゃないくらいの距離にあたしは居たいのに。


 その映画は、やはり洋画だけあってアクションでも恋愛も混ざっていて、主人公の恋人を愛する気持ちを垣間見てしまったときはあたしも切なくて思わず隣の手を握りそうになってしまった。
 観終わって、あたしたちは会場から出て行く。まだ明るい照明に目が慣れなくて、目を細めた。
 慎司と感想を言い合いながら、ロビーへ歩く。こうしていると、本当に恋人になってしまったような錯覚に陥ってしまう。そんな妄想、くだらなくてありえない。
「杏、今度の誕生日には何が欲しい?」
 唐突に慎司が訊いた。あたしは慎司の横顔を眺める。
「...まだ三ヶ月も先の話だよ?」
「今からいろいろ考えたいじゃないか」
 乾いた声で慎司は笑う。いろいろって何? 素朴に思う。十六になったときにくれたのはこのネックレス。こんなの大人っぽいと分かっていながら、もうこの身から離せないでいる。なのに今日失くしかけたことを思い出して、あたしは慌てて手で確かめる。手に絡みつく金属。よかった、そう簡単に金具が外れるものではないけれど。
 十七の誕生日。あたしは二月の寒い日に生まれたという。
「お兄ちゃん」
「何?」
 優しい目で問いかける。何が欲しい? そんなの決まってる。
「お兄ちゃんが欲しい」
「......え?」
 そのまま表情が固まった慎司を見て、あたしは心の中でため息をついた。何を言ってるの、あたし!?
「...なんて」
「え?」
「ちょっと冗談を言ってみたりね」
 あたしは笑顔を作って笑ってみた。自分の笑顔をちょっと気に入っている。
 そう、あの時だって、あたしは笑っていた。あたしは幸せだもの。本当にそう思い込むと、本当に幸せだと感じる。人間って単純で面白い。
「杏...、おまえ、お、驚かすなよ...」
 本気で目を見開く慎司を見て、痛む心の隙間に温かい風が吹くような、そんな気がした。あたしは大声で笑った。
「わ、笑うなって」
 慎司も笑う。あたしは無意識で慎司の腕に自分のを絡めて、本当に駄目なんだって思い知らされながらもその瞬間さえ切なくて幸せに感じた。
 慎司に触れた触れた指が、腕が、少し体温が高い。
 ねえ、あたしは幸せなんだよ。慎司がいればきっともっと笑える。
 運命の人だったらいいのにって何度も思ったんだよ。
「じゃあ、仕方ないから二月までに考えとくよ」
 誕生日の話題を引きずってあたしが言うと、慎司は顔を引きつらせながらもうなずいた。
「りょーかい」
 屋外に出ると冷たい風が吹いた。十一月になるとこんなにも寒い。一度くしゃみをすると、慎司が空いた片手であたしの髪に触れた。どきりとした。
「大丈夫か?」
「...うん、ありがとう」
 鼻声でうなずいて、どうにか誤魔化す。期待させないでよ。少しイライラする。
 慎司の車はどこだったけ、と瞳を前に向ける。あ。
 あたしはぽかりと口を開けた。
 ...あたしがいる。
 目の前に、あたし...? あたしが、いる。
「杏...?」
 そのあたしは、あたしの名前を呼んだ。聞き覚えのある声。顔。表情。全てがあたしを狂わすように。
「杏、久しぶりね!」
 目の前にいる、あたしとそっくりの顔の女が顔を歪めて笑った。


 気付いたら、映画館の傍にある喫茶店で、あたしと慎司は並んで座っていた。あたしの目の前に座っているのは、あたしを産んだヒト。
「何年ぶりかしら、杏、大きくなったわね」
「...あれから何年経っていると思っているの」
 そっけなく答えると、横から慎司が肘であたしをつつく。
「ちょっと杏、おまえなんでそんなにそっけないんだよ? ハハオヤだろ?」
 心配する慎司を、あたしは横目で睨む。放っておいてよという合図。
「隣にいるのは、慎司クンね。話は聞いているわ。ああ、会ったこともあったかしらね。いい男ねー」
 親しくもないのに、馴れ馴れしく笑顔で話すヒト。空気を読めないヒト。
 あたしだって作り笑いはわりと得意だけど、あたしとそっくりのこのヒトの前だと上手く笑えない。昔は、笑えていたのに。


 だけど、本当は寂しかったんだよ。
 世界の中心はお母さんだけで、ただそれだけで、お母さんに見捨てられたらきっと世界は終っちゃうって思っていたの。
 あたしはそういう子供だったの。
 だから、何をされても、あたしはお母さんの腕にしがみついていたの。
 なのに、どうして。


 急に家から出て行った母親のことを、今ならもっと冷静に分析できた。
 あの時はただ寂しくて、泣き喚いて、だけどパパが帰ってきたら何事もないように振舞った。幼い頃からそういうことだけは得意だったから。
 でもあとになって知った。
 あたしは、お母さんにとってただの邪魔者だったんだよ。



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