| 第六話 卑怯な笑顔 |
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目の前の女は、杏そっくりの人だった。だけど、化粧と服装のせいでやはり杏よりも大人っぽく色気を晒しているが、とてもじゃないけれど高校生の母親には見えない。 彼女は杏と偶然会えたことを心から喜んでいるらしく、最近の仕事や生活などの近況を語っていた。杏もそれに笑顔でうなずく。 だけど俺は知っている。 それは杏が中学生になったばかりのときにつぶやいた言葉。 ―――あたし、お母さんの一番のヒト、知っている。パパにも言えない...。 一時間ほど経った後、俺は強引に席を立った。 「両親が家で待っていますので」 時計は午後八時をまわっている。先ほど携帯で杏と一緒だと伝えておいたから心配はしていないだろうけれど、もう父も帰っている時間だろうし、何よりこれ以上遅くなったら杏に激ラブな母が俺に対して文句を言うに決まっている。 「お兄ちゃん、お兄ちゃんってば」 杏の声で我に返る。気付けば俺は杏の手を握ってとにかく足を前に出していた。俺の歩く早さに追いつけなくなったのか杏は肩で息をしながら俺を見上げた。 「お兄ちゃん、...大丈夫?」 「.........ああ」 そんなことより俺はおまえのほうが心配だ。そう思うのに、俺はまともに杏の目を見ることができない。 車に乗って家へ向かう。杏はやっぱり窓の外に顔を向けている。来るときよりもずっと空気が重々しい。 誕生日以来ずっと夜中帰りだった俺が早く帰ってきたことがよほど嬉しかったのか、母は嬉々と料理を出してきた。何のイベントもないのにこのおもてなし、さすがにこの歳になると少々キツイ。 「おっかえりー、杏! 慎司兄ちゃんとのデートは楽しかったかー?」 いつもと同じようにからかう口調で父は杏の頭を撫で回す。いつもの杏だったら「デートじゃないよ!」と口を尖らせるのだが、今日ばかりは杏は微笑で終わった。父もさすがにその異変には気付いたのだろうけれど、どう接すればいいのか分からないという表情を俺に示す。 ...今は、放っておくしかないだろ。 間違っても、「あなたの元妻に偶然会ってきました」なんて言えやしない。 母の手の込んだ料理を食べるときも、杏は両親に気を遣っているのか笑顔ではあったが、目は虚ろだった。 「...ごちそうさま」 静かに言った杏はそうつぶやき、椅子を鳴らして立ち上がった。 「あら、杏ちゃん、もういいの?」 「うん...、ごめんなさい、あまりお腹すいていなくて...、でもすごく美味しかった。ありがとうね、ママ」 にっこりと笑って部屋を出て行った杏の演技はどこまでも完璧だ。案の定母はほっとした表情で「おやすみ」と杏の背中に声をかけていた。 「...俺もごちそうさま」 俺も立ち上がる。 「まあ慎司、せっかく早く帰ってきたのに、あなたもなの?」 「実は映画館でポップコーンとかホットドックとか色々食っちまったんだ」 苦笑してみせるけれど、俺は杏ほど芝居上手ではない。母と父は顔を見合わせいている隙に、俺もリビングを出た。 杏の部屋の前で立ち止まった。 ドアの向こう側には気配が見えなくて、少し戸惑う。だけど今杏は何をしている? 俺は震える手で扉をノックした。 「...杏?」 声をかけるが、返事はない。 「杏、話があるんだ。...話をしたいんだ。開けてくれないか?」 俺が言うと、急に杏の気配が姿を表し、こんな緊迫する状況だというのに俺はほっとしてしまった。 少し経ってから、杏は少しだけドアを開けて、俺を見上げた。 「...何?」 「ちょっと中に入っていいか?」 杏の了解も得ずに、俺は力ずくでドアを開けた。唐突のことで、杏はただ呆然と俺を見つめていた。その視線が鋭くなり、やがて俺を睨んだ。 「...何、勝手に入ってきているの」 「ゆっくり話がしたかったから」 「だからって! やり方が横暴すぎるよ。今日のことは悪かったと思うよ? でも酷すぎるよ、お兄ちゃん!」 そんなこと分かっている。だけど、その声は掠れていて、目は腫れていて、痛々しい。本当は今すぐに抱きしめておまえを守ってやりたいのに、その役目は俺には務まらないんだ。 俺は部屋の片隅に座った。やっぱり部屋に入るんじゃなかったと今更後悔する。この部屋の全てが杏で、いちいち俺を刺激して心が痛かった。 「...話って、何」 俺の隣に座って、杏は俺の顔を見ないまま言った。 「あのさ...」 いろいろ言いたいことはあるくせに、俺の声が詰まる。上手く言葉にできなくて、ベッドの枕元にあるくまのぬいぐるみを見た。あれは俺が働き始めた頃に杏に買ったものだ。今でも大切にしてくれるんだって分かって、こんな状況下で嬉しく思った。 「おまえ、さ。...親を心配させたくないのは分かるけれど、そんなんじゃ疲れてしまうぞ」 「......何のこと?」 出来るだけ平静を保って訊き返す杏はとても愚かだ。そしてとても純粋で、このままでは絶対に駄目だと思った。どうして俺を頼ってくれないんだって。 「俺はおまえのこと、見抜いているつもりだけどな。家でも学校でも笑って過ごせば平穏だもんな。でもそれって、おまえが望んでいる幸せか?」 そう、杏の笑顔は卑怯だ。笑えば何でも済むと思っている。俺だって、そうやって何度交わされたか分からない。そう思うと悔しくて、悲しくて、どうしてこんな風になってしまったんだろうと思う。俺は全ての杏を受け止めたいのに。 図星だったのか、俺の言いたいことが伝わったのか、杏は俺の顔を見たまま五秒ほど硬直した。そしてそれが溶けた途端、 「...お兄ちゃんに何が分かるというの」 低い声で、静かに杏はつぶやいた。 「あたしは、お父さんが再婚してくれて、新しいお母さんは優しくて、そして格好いいお兄ちゃんを持って、幸せなんだよ? 一度家族は壊れちゃったけれど、今度こそは幸せにならなくちゃ駄目なんだよ。あたしが泣いたり悲しんだりしたら...、ママもパパも心配するに決まっている。絶対悲しむよ。あたしが笑わないと、あの人たちは報われないんだよ...」 だから、と杏は言う。 「そのためだったら、あたしは嘘でもいいから、どんな形でもいいから、幸せになりたいの」 その覚悟の決まった声に俺は驚きながらも、杏を見た。 「...一人で、か?」 そう訊ねると、杏は辛そうに瞳を伏せた。長い睫毛が白い頬に影を作った。 「だって、お兄ちゃん...」 つぶやいてから、杏は顔をあげて笑った。 「......駄目だよ、お兄ちゃん。他に女がいるのにあたしの部屋に入るなんて。そりゃ、あたしはお兄ちゃんにとって女じゃないから、そういう意識はないのかもしれないけれどさ」 杏は立ち上がって、無理やり俺を立たせて廊下まで背中を押した。俺は話の飛躍について行けず、脱力していた。 「あ、杏? 何言ってるんだ?」 「それでもあたしたちは血が繋がっていないんだし、デートしたなんて知ったら彼女悲しむよ?」 「か、カノジョ!? そんなモンいないけど...」 「知っているよ。ママに聞いたもの」 「え、母さんに!? 言うなって言ったのに!」 俺がやけになって叫ぶと、杏は一度俺の顔をじっと見た。まだ鋭いその視線が少し揺らいでいて、このままでは駄目だと思った。 思ったのに。 「おやすみ、お兄ちゃん」 やはり杏は笑って、そのままドアを閉めてしまった。 杏の心が見えない。俺は部屋に戻り、そのまま座りこんで頭を抱えた。 あんなに杏を理解できると自信があったのに。いつの間にこんなに杏は遠いところへ行ってしまったのだろう。 |
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