第七話 元家族



 誘導尋問に引っかかってくれるなんて、なんて馬鹿な男よ。その夜、ベッドの中で泣きじゃくった。嘘でもいいから幸せにって思ったのは本当だ。これ以上あたしを見られたくなくて、無理やりその話題を引っ張りしたのもあたしだ。なのに後悔している。
 本当に慎司に彼女がいたなんて。


 洗面所の鏡の前で自分の表情を確かめる。じっと目が合うのは、お母さんじゃなくてあたし。あたしだよ。にっこりと笑ってみる。目が細くなる。黒目がひときわ目立って、口角もあがり、これだけが武器だと思って生きてきたのに。これだけがあたしの長所だったのに。どうしてお兄ちゃんは見抜いたんだろう。いつから知っていたのかな。それを知らずに笑っていたあたしを見て、どれだけ馬鹿な女だと思われたか。そう思うと悲しくて、もう笑えない。
 涙があふれそうになって、あわてて蛇口をひねり、顔を洗った。
「杏、朝ごはんの準備できたわよー!」
 キッチンからママの声が聞こえる。あたしは明るく返事をし、蛇口をもう一度元に戻した。一滴だけ水滴が落ちた。ほらね、大丈夫。鏡の中のあたしが笑う。
 慎司は朝早く、あたしが起きる前に家を出たらしい。そんなの当たり前の光景。今のあたしにとって助かった。
 これからどうやって慎司に接すればいいのか分からない。


 一日中あたしは気だるくて、麻里子にも心配されたけれど、今日はもう疲れた。何もしたくない。何も考えたくない。
 浮腫んだような足を引きずって廊下を歩いた。ふらふらする。
「萩本」
 眩暈を感じたのと同時に声がした。バスケットのユニホーム姿。もうそんな時間だったっけ?
「大丈夫か?」
 見覚えのあると思ったら野田くんだった。肩にスポーツタオルかけていて。まだ汗もかいていないくせに変なの。
「・・・・・・何が」
「ふらついてんぞ、おまえ・・・」
「え・・・?」
 そういえば、あたしはどこを歩いているのか分からない。今日一日何をしたのかも覚えていない。
「・・・今日が日直じゃなくてよかったかも」
「そんなことを言っている場合じゃないだろ!」
 野田くんはあたしの手首を掴んだ。大きな手だと思った。お兄ちゃんとおんなじ。
「歩けるか?」
「ん・・・」
 うなずいてみるけれど、足が上手く動かない。
「萩本・・・」
 ため息をついて、野田くんはあたしの歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれた。いつもだったら楽勝の一番上の靴箱に手を伸ばすのも辛くて、ああ今日のあたしはおかしいんだと今更気づいた。
「俺、部活あるから正門までしか送れないけれど・・・、本当に大丈夫か?」
「うん、ありがとう」
 自分の体調の異変に気付いたら少しほっとした。とても変な話だけど。ようやく笑顔を思い出して、野田くんに微笑んだ。それを見て、野田くんは安堵の表情を浮かべる。それでもやっぱり心残りなのかあたしが背を向けてもこっちを見ていた。部活があるはずなのに。
 あたしが正門の外へ、ふらつく足を一歩踏み出したとき。
「・・・杏? 杏か?」
 低い声があたしを呼んだ。昨日はそれが慎司だったけれど、今日は。
 ・・・今日は?
「萩本、知り合いか?」
 振り返ると胡散臭そうな顔で、野田くんがあたしの前にいる男の人を見ていた。あたしはもう一度男の人を見上げた。スーツ姿の、慎司よりも背が高い。
「杏、久しぶりだな」
「・・・カズ叔父さん?」
 あたしは空気を飲み込んだ。


「いやー、杏。おっきくなったなー。綺麗になった!」
 コーヒーを飲みながらつぶやく叔父を見て、あたしは肩をすくめた。
「綺麗なんて誰にも言われないよ。お世辞言わなくてもいいよ」
「何言っているんだ。言われるだろう、おまえのパパにとか」
「パパだって綺麗とは言わない」
 そう言って笑った。まだ浮腫んだ足とか関節とか痛いけれど、あたしはこの叔父が好きだったから。・・・好きだった。今思えば初恋だったのかもしれない。あたしは何も知らない八歳だったけれど。
 そして、彼はあたしのお母さんの弟にあたる。前の母親、あたしを産んだヒトの弟だ。
「冬実に会ったんだってな」
「うん、あたしと、あたしのお兄ちゃんと」
 冬実というのはお母さんの名前だ。
「昨日のことだよ。さすが、情報早いね」
「杏に会えたことがよほど嬉しかったのだろうな」
 まるで自分が嬉しいことのように語る叔父を見て、相変わらずだなと思う。放課後の喫茶店。まわりには学生同士のトモダチやカップルが集まっているのに、スーツ姿と制服。しかも親子ほど歳が離れていて、今日は変な勘違いをされたらものすごく困る。昨日は、あれほど望んだのに。相手が違うとこんなにも違う。
「おまえのお兄チャン、・・・ええと何クンだったっけ?」
「慎司クン」
「そうそう、慎司クンもいい男だそうじゃないか」
「お母さんの言うコト、全部鵜呑みにしているんだ、叔父さん」
 そういうところも全部、昔は好きだったんだよ。あたしはいつも、好きになってはいけない人を好きになる。
 叔父だから駄目なんてことじゃない。だってこの人は・・・。
「冬実、驚いていたぞ」
「なんて?」
「最初、おまえらがカップルに見えたって」
 叔父の言葉に一瞬我を忘れて、思わず笑った。
「そう。それはあたしも驚いた」
 あたしの、母への態度は決して褒められたものではないと分かっている。それでも、あたしはもう母には笑えなかった。母だってそんなこと分かっている。あたしは母の娘なのだから。
 それでもこうして、叔父に嬉々と話す母を想像して、なぜだか胸が熱くなった。それと同時に頭痛に襲われ、あたしはコーヒーカップをガチャリと音立てた。
「杏?」
 頭を押さえて、テーブルにひじをつく。
「杏、大丈夫か?」
 叔父さんの声。叔父さん、いつまであたしを純粋だと思っていてくれるの?
 あたしはお母さんの子供なんだよ。間違いなく、お母さんの血を引き継いでいるの。だけど許して欲しい。
 あたしは慎司を好きなの。お兄ちゃんなのに。


 気付いたら車の助手席に乗っていた。
「杏、目が覚めたか? 意識が混濁している」
 運転しながら、厳しい声で叔父が言った。
「とりあえず家に向かっている。もしパパさん不在であれば、俺が病院に連れていく。いいな?」
「・・・・・・ありがとう」
 椅子に全体重を預けて、あたしはつぶやく。身体に力が入らない。ちゃんと前を見ていないとすぐに眠ってしまいそうだ。
「そんな体調なのに、引き止めて悪かったよ。おまえも言えよな、具合悪いなら」
「・・・ん、あんまり気に留めてなかったっていうか。ごめんね、叔父さん。気にしないで」
 ゆっくりと進んでいく車。デジタル時計は七時を表す。いつもより遅くなってしまったけれど、鞄から携帯電話を取り出す力もない。
 アクセルが緩まる。狭い住宅地。その中の一軒家。
「ほら、着いたぞ」
 ブレーキが踏まれ、車が止まった。叔父が降り、助手席のドアを外側から開けてくれた。紳士の人だと思う。あたしが叔父の手を取ってどうにか車を降りたとき、玄関のドアが開いた。
「杏ちゃん!」
 中から飛び出して来たのはママだった。
「どうしたの、連絡もよこさないで!」
「あ・・・、ま、ママ・・・」
「私に心配させないで!」
 怒ったママを見たのは久しぶりだった。あたしが叔父の袖を握ったとき、叔父が頭を下げた。
「こんな時間までお嬢さんを引き回してしまい、申し訳ないです」
「あ・・・、あなたは・・・?」
「お、俺・・・僕は・・・」
「叔父さんよ、ママ。あたしの、昔のお母さんの弟。叔父さんは全然悪くないの、あたしが一緒にいたかったから一緒にいただけ。心配・・・、心配かけてごめんなさい」
 真剣に謝ると、ママはため息をついた。
「・・・ご飯、出来ているわよ」
 そのまま、叔父の顔も見ないままママは家に入っていった。あたしが一度叔父を見ると、もう行けと顔で促された。あたしの家族は、壊れる瞬間をとても怖がっているから、それを叔父さんも知っているから。
「・・・カズ叔父さん、ありがとね」
 叔父の笑顔を見てから、ふらつく足で家に入った。



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