進藤さんのお別れ会が開催される


                                                       

 平成19年1月13日(土)セレモ柏ホールで、進藤さんのお別れが会開催されました。 

  進藤さんは昨年秋、体調がおもわしくなく入院していましたが、お正月をまじかに控えた年末に退院したやさきの12月29日に

  亡くなられたとのことです。病気とはいえ、64歳という年齢で亡くなられたのは、信じられない思いがしました。

   お別れ会には、ご親戚をはじめ、もとの会社関係者、友人、ご長男の会社関係者などがたくさん集まリ、故人のお人柄を感じ

  させる思いがしました。

  弔辞や弔電の披露があり、お別れ会の最後に、アンサンブル・レオーネ、東京リーダーターフェル他で、進藤さんを偲んで

  「野ばら」 「希望の島」 「遥かな友に」 を歌いました。

  進藤さんの御冥福をお祈りいたします。 (Y.I 記)

                        

       
雲ひとつない青空が広がりました   お別れ会は11時からです   進藤さんの写真、アルバムが置かれて    
       
祭壇には多くの花が飾られました   レオーネからの花輪も飾られて・・・   会の始まりを待つレオーネの団員    
       
ひとりづつ献花をしました   野ばら、希望の島、そして・・・   遥かな友に・・・・    

              

 

故 進藤 曄氏を偲んで

                                                        鈴木 正吾

 

 わがアンサンブル・レオーネにとっても、家族同士の付き合いをしていた私にとっても、惜しい人を亡くして本当に残念でなりません。

思い起こせば、進藤さんとの接点は、‘98年7月に開催したレオーネの「創立20周年記念演奏会」(第1回)に聴きに来てくれたことから

始まりました。

 演奏会後に回収したアンケートに、事細かく示唆に富んだコメントをびっしりと書いてくれて、氏名の脇に『東京リーダーターフェル1925』

と記入してあったので、早速に“熱い熱い”入団勧誘文を送りました。

 その結果、「一度会いたい」と声が掛かり、共に夫婦連れで手賀沼を散歩し、喫茶店で親しく会話をしたところ、お互いに共通して

“花”や “野鳥” に興味がある事が判りました。

 2000年7月に行う「2000年記念演奏会」(第2回)の混声合唱“水のいのち”に応募してくれて、練習から参加してくれました。

その後、急速に親密度が増し、進藤さんの勤め帰りに、新橋で酒を酌み交わす程になりました。

体が大きいので飲む量も多く、強いのにはびっくりしました。特にビールが好きでした。

(後日談では、この頃が最盛期だったと言っていました。)

 

 ‘03年の年賀状に勤め先で倒れられて“退職”した事を知らされました。

その後、2月に胃ガンの手術、5月にうつ病で入院と、見る見る体が細っていきました。

しかし、’03年6 月にターフェルの「ドイツ演奏旅行」が控えており、体調に気を配りながら練習を重ね、悩みに悩み抜いて最終的には

奥さんの同伴を得て参加されました。

 帰国後、また体調を崩して病院通いをしていましたが、12月の定期演奏会に向けて頑張って、出演にこぎつけました。

本当によく頑張った1年でした。

 ‘04年1月の「JORDAN会第4回合同演奏会」に聴きに来てくれて、レオーネの「海豹と雲」を “地味だけどプロ並みの選曲で、多田節の

品格を大切、丁寧に歌っていた。 4番5番はハモッテいて秀逸であった”  と評してくれました。 

 2月に家庭内やターフェルの練習に向かう駅頭で発作で倒れたりして自信をなくし、「見栄を張らずに、こじんまりとした家族的なグループ

で合唱を楽しむ事を考えたい。」 と考えに考え抜いて10年余のターフェルに終止符を打ったのでした。

 3月にレオーネを見学しました。 初練習の印象を 

 「指揮者の人柄か、ターフェルと違って “楽しい” の一言に尽きる。足を引っ張らないように努めたい」  と、即入団しました。

 入団直後から、仲間に早く溶け込もうと、アフターにも積極的に参加していました。

そして、それぞれの本音が聞けて楽しいと言っていました。

 入団後早速、4月に郵政記念日、5月に湖北ミニコン、8月にお父さんコーラス、11月に合唱祭、12月に第九(初舞台)と(夏に抗ガン剤

の副作用か“立暗み”で足指を骨折して練習を休みましたが) 精力的に参加していました。

 4月の郵政記念日の演奏について「善意が素直に伝わって、いいですね。」と漏らしていました。

この日は、気分が良かったとみえて「今日は、タケノコご飯とフキの大和煮を食べて、テニスをした後、ビールを飲んで、昼寝をし、

爽やかな一日だった。」  と言っていましたが、レオーネに入団して精神的に落ち着き、郵便局での演奏で充実感を味わい、

元気を取り戻したのではないでしょうか。

 ‘05年になって、レオーネのドイツ行きの計画が持ち上がり、順調に練習して来ましたが、11月に血栓から脳梗塞となり入院、

続けて前立腺も異状が発見され、ドイツ行きを断念しました。この時次のような発言をしていました。

 ・ レオーネを私の最後の合唱団と決めている。

 ・ ドイツ行きは諦めるが、国内の行事は精進して参加に努めます。と

 ”06年4月の『ドイツ訪問記念演奏会』には修得した2ステージのみ出演し、これを最後に退団しました。

退団後に、次のように述べていました。

 

  ・「短い期間でしたが暖かく迎えてくれて感謝しています。 

   掛替えのない仲間を失ってしまって、埋める術のない空しさに、如何にレオーネが大きな支えであったか痛切に感じる。

   命を大切にして、また笑顔で皆さんと会いたい。」

  ・「本当に、素朴さと一途な情熱に満ちた、素晴らしい歌の仲間でした。」

  ・「手賀沼を越え、世界に、レオーネの心の叫びがハーモナイズする事を祈っています。」

 

 6月に家庭を訪問したら、睡眠も食事も摂れない状況で入院していました。医師からは「合唱から、少し離れなさい。」 と言われた

ようなので、ドイツの土産話をしたかったのですが、ヴュルツブルクのレジデンツで買って来たフランケンのワインを渡して帰って来ました。

 それ以来訪問も、メールもせず、案じていたところ、12月29日朝に、訃報に接しました。

これまで休むたびに、退団でなく休団にと何度となく説得をしましたが、持ち前の生真面目さ(義務感がストレスに変えてしまうのでしょうか)

から、これ以上迷惑をかけられないと聞き入れず、後で後悔して翻す事がたびたびありました。

 この間、精神的にも、肉体的にも、どんなにか苦しい思いをされた事か察するに余りあります。  

 

 進藤さんは、『花』 『鳥』 が好きで、マンションの1階の自宅のお庭にたくさんの花木を植えて、“季節の移ろいを感じ、緑に元気を

貰い” 庭木に餌台を作っては、野鳥が来るのを楽しみにしていました。

 また、自治会長に就任した時に、彼の優しい志が、マンションの庭に花を咲かせて “潤いのある街” にしようと運動を起こし、

成功させました。

 『絵』も大変好きで、私の出展する市絵画展の案内をすると、必ず見に行ってくれて、観察の鋭いコメントをくれました。 

また、『テニス』をして、体を鍛えていたようです。

 

 そのほか

 ・ 「清水公園に “ロウバイ” が、旧武者小路実篤邸下に “蓮” が咲いたよ。」 と情報交換をして、お互いに見に行ったり、

 ・ 「関宿で日本画の巨匠 “後藤純男展” をやっていて、凄い迫力だよ。」 とか

 ・ 「昭南町で“天満敦子”のヴァイオリン・リサイタルがあるよ。」 と誘い合ったり、

 ・ 「手賀沼のほとりの空き地で“コチドリ”が雛を孵したので、見に来ない。」 とか、

 ・ 「郷里からこんな物が来たので、お裾分け」 と言って届け合ったり、

 ・ 「この間○○へ旅行して来たけど、素晴らしかったよ?。」 と土産物を届けあったりして、親密な交友関係を続けて来ました。

 

 しっかりとした、気丈な才女の奥さんに助けられて、2人3脚で“病い”と5年間戦って来たのですが、薬石効なく、遂に亡き人となって

しまいました。

 長い間の会社勤めを終え、愛らしい双子のお孫さんも誕生して、人生これからという時に、何という無情な事でしょう。

申し上げる言葉もありません。

 “どうぞ安らかに、お眠り下さい。” 

 

                                                

 

                                     

                                                    

                                                        

         


 平成19年1月20日(土)、東小学校での練習時に、故人の奥様、お嬢様が、お別れ会のお礼に来られました。

                               



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