三 「『話』らしい話のない小説」の実践

 二章でも触れたように、芥川は志賀直哉の「焚火」を参照し模倣することでいくつかの作品を執筆している。それは「『話』らしい話のない小説」を実践することを意図してのことであったと考えられるが、芥川は何故そうした試みに着手したのだろうか。そしてまた、「焚火」から具体的に何を学ぼうとしたのか。まずそのことについて考えてみたい。
 「海のほとり」と「焚火」との類似点については先行研究において多く論じられてきているが(注22)、作品の構成や場面の状況設定における共通性が最も重要であると考えられる。具体的には、雨に降り込められて室内にいる登場人物たちを描く冒頭と、自然の中で登場人物たちが引き上げようという会話を交わす末尾とが両者に共通していることがある。また、「海のほとり」ではながらみ取りの幽霊の話が、「焚火」ではKさんの母の焚火の話が主人公以外の登場人物の語る不可思議な話として構成の中軸に据えられており、対応関係が見られることなども挙げられるだろう。その他個々の場面の描写においても対応が見られることが指摘されてきているが(注23)、いずれにせよ芥川が「焚火」に学んだ点として具体的に指摘できるのは、状況設定や構成、筋の展開の仕方など表現上の形式や手法であることは明らかであろう。
 芥川はその「『話』らしい話のない小説」を、志賀直哉の「焚火」を形式的に模倣することからはじめたのであった。そもそも、「詩的精神」とは作者の無意識が投影されて成るものである以上、真似ることのできるようなものではないのであり、芥川は「海のほとり」でこの傾向に着手した時点で、そのことは十分に認識していたはずである。そして、「『話』らしい話のない」とは要するに、「話」つまり「通俗的興味」に関連する要素を排除したという技術的・形式的な意味を示した命名なのであり、この点から考えても、芥川が志賀の模倣を通して「『話』らしい話のない小説」に着手したのは、表現形式上の変化を意図してのことであったことは疑いないものと思われる。
 では何故、「『話』らしい話のない」ということを手法として追求しなくてはならなかったのか。それは、芥川が自らの従来持っていた〈小説〉観と作風を一旦完全に切断し、そのことによって自らの新しい芸術観に見合う作風を手に入れようと志したからにほかならない。芥川は、自分が元来得意としていた手法や技巧をすべて封じることによって、全く新しい一歩を踏み出そうとしていたのである。そうした試みを具体化するために、芥川は自ら尊敬し、また自分の作風とは対極にあるように目されていた志賀直哉の作品をモデルとして参照したのであった。
 第一部五章において指摘したように、芥川は初期以来語りの説話性や筋の展開の妙といった物語性にこそ、〈小説〉らしさを見出していたのであった。小品や随筆や詩とは異なる〈小説〉独自の魅力を追求していたのが初期芥川文学であったと言うことができる。作品中に語りの〈場〉を設定したり、ある一つの結末を目指して筋の展開を統制したりという芥川の初期作品の特色は、そうした〈小説〉の説話性、物語性の重視という発想から生まれていたのであった。
 しかし、大正十二年に芸術観上の転機を迎えた芥川は、芸術に意識的技巧を越えた神秘が存在することを認識するようになる。作品に物語性や説話性を与えることは、作者の意識で統括できることの範疇である。構成や題材にある種のパターンを設定することで、バリエーションをつけつつも同じ手法の作品を再生産していくことが可能なのである。芥川は大正八年に「芸術その他」において芸術家の退歩を示す「自動作用」として「同じやうな作品ばかり書く」(『同第五巻』166頁)ことを自戒的に論じていたが、芥川は意識的芸術活動を行う上で、こうした危機感に常にさらされていたのであった。パターン化によって芸術的価値が退歩する危険性を自覚することは、パターンを生み出すような意識的技巧そのものに対する懐疑にも結びつく。芥川が大正十二年以降に文芸作品の芸術性の根拠として作家の無意識の反映ということを想定するようになったのは、パターン化という意識的芸術活動の限界の認識が、パターン化し得ないものにこそ芸術性が宿るはずであるという直観へと反転したところから来ていると考えられるのである。
 芥川が「『話』らしい話のない小説」を提唱する上で排除したのは、初期以来の自らの作風そのものであった。材料の奇抜さや、読者に強く訴えかける効果を狙った展開上の技巧などはすべて「通俗的興味」であり、芸術の芸術性に関与するものではないとの考えから、そうした側面を極力排除することで、「詩的精神」のみに依拠した表現を目指したのである。
 第一部四章において紹介した、志賀直哉の「沓掛にて」のエピソードを想起したい。「奉教人の死」に見られるどんでん返しの結末を批判する志賀に対し、芥川は「芸術というものが本統に分つていないんです」と答えていた。この対話は大正十三年十月の出来事と考えられるが、芥川はこの時期には単線構造を用いる自らの手法に対して懐疑の念を持ち、「本統」の「芸術」とは何かという疑問に突き当たっていたのであった。その際、志賀の批判と助言が芥川の転換を方向づけるに寄与したことは言うまでもあるまい。芥川は〈保吉もの〉などの作品群を執筆することによって転換を模索していたが、やがて、自らの〈小説〉観とそれに基づく表現技法とを一旦完全に否定し排除することによって、全く新しい傾向の作品を執筆しようとするに至ったのである。
 そこで登場したのが、芥川が「『話』らしい話のない小説」の実践として取り組んだいくつかの作品であった。「海のほとり」「死後」(大14・9)、「年末の一日」(大15・1)、「悠々荘」(昭2・1)、「蜃気楼」(昭2・3)の五作をその例として挙げることができる。
 芥川が久米正雄の心境小説論を受けて「『わたくし』小説に就いて」を発表したのが大正十四年七月、「『私』小説小見」によってまとまった形で批判を提示したのが同年十一月のことである。「海のほとり」「死後」の二作はこの間の九月に発表されているのであり、芥川の「『話』らしい話のない小説」の実践が、心境小説論の隆盛を目の当たりにしつつなされたものであることは確かである。これらの作品を心境小説の実践作と見なす論者の発想の根拠も、この時期的な接触にあると言えよう。
 しかし、一・二章において論じてきたように、芥川が同時代に私小説・心境小説と呼ばれていた作品群に見ていたのは、作家主体の心境の表白などではなかった。作家の心境を云々する批評や鑑賞の基盤となっているのは、作家自身の人格や現実生活を実体化し、そのリアリティに依拠することによって作品内の出来事を捉えようとする発想である。同時代の心境小説論は現実の再現ということを重視し、現実の作家本人の体験や感情の反映を作品に見出すことを評価の基準としていたのである。一方芥川が求めていたのは「詩的精神」であり、それは表現を通して感受される情緒的な「或感じ」、「美しさ」といったものであった。「詩的精神」は「純粋な作家の面目」と結びつくものとされているものの、そこで想定されている「作家」の「面目」とは、現実の作家に収斂するものではない。芥川が「詩的精神」を通して見ようとしていた「作家の面目」とは、技巧や意識を越えた芸術家の「魂」であり、人を「静かにする」(『同第十五巻』227頁)ような芸術家の情熱と気魄のことであって、作家自身の実人生と関わる問題ではないのである(注24)
 「『話』らしい話のない小説」と「詩的精神」とは本来特別な結びつきを持つものではない。しかし、物語性や説話性を重視する〈小説〉観によって「通俗的興味」にばかり気を取られていたことを反省し、従来の作風を否定的に捉えていた芥川は、「通俗的興味」をできるだけ排除した作品を書くことによって、新しい〈小説〉観を構築しようとしていたのであった。自らの従来の作風を切断し、小説というジャンルの振幅のうち一方を極端なまでに追求することによって、文芸の芸術的価値の源泉である「詩的精神」の有り様について実感しようとしていたのである。芥川の試みが同時代の心境小説論の隆盛に追随した身振りではないことを、改めて確認しておきたい。
 まずこれらの作品に関して、表現形式における特徴を概観しておくことにしよう。共通する特徴としてまず気づくのは、すべての作品において一人称の「僕」が語り手となっている点である。この「僕」の名前は作中では示されていないもののいずれも同一人物と考えられ、芥川龍之介自身であると理解することができる点で一つの系譜をなしていると言える。「悠々荘」では書き込まれていないものの他の四作では主人公が作家であることが明らかにされており、「年末の一日」では「次男の多加志」と「夏目先生」が実名で登場しているほか、「海のほとり」では大学在学時から同人誌に作品を発表していたとされている。「蜃気楼」では「彼は彼自身の勉強の外にも『芋粥』という僕の短篇の校正刷を読んでくれたりした。………」(『同第十四巻』96・97頁)という記述によって、芥川龍之介の過去の作品についての言及がなされており、同時代の文芸雑誌に親しんでいた文壇的読者であれば、主人公を芥川龍之介自身に引きつけて読み得るように人物造型がなされていると言えよう。実在のモデルが存在するらしい家族以外の登場人物は「K君」のようにイニシャル表記が採用されているが、こうした人名表記の点でもこれらの作品は共通している。芥川はこの五作を同じ文体や人称の表記によって統一しているのであり、舞台や題材として扱われている時期はそれぞれ異なるものの、一連のシリーズとして意識していたと考えることができる。
 こうしたシリーズとしての表現形式に関しては、芥川は葛西善蔵の作品を参照していたのではないかと考えられる。従来志賀の影響のみが取り沙汰されてきているが、形式上における葛西の模倣ということもまた見逃すことはできない。葛西は大正九年から昭和二年にかけて〈おせいもの〉と呼ばれる作品群を執筆しているが、このシリーズは「おせい」という女性と作家である主人公との生活における心理的葛藤が描かれている点で一つの系譜をなしており、主人公の名前は作中では示されていないものの(注25)、葛西善蔵本人の伝記的事実や日常を彷彿とさせるような描写が様々に書き込まれていた。葛西の過去の作品に関して一人称の主人公に語らせている例なども多く見られ、例えば「椎の若葉」(大13・7、初出時は「椎樹の若葉」)には「『呪はれた手』といふ小品を書いたこともあるが」(『葛西善蔵全集第三巻』文泉堂書店)のような記述がある。主人公が作者葛西善蔵本人と同一視されるような書き方が敢えて採用されているのである。
 「蜃気楼」には「鵠沼の海岸に蜃気楼の見えることは誰でももう知つてゐるであろう」(『同第十四巻』91頁)といった一節が見られるが、鵠沼海岸に蜃気楼が現れたという記事が実際に大正十五年十月二七日の「東京朝日新聞」に掲載されていることが、平岡敏夫氏(「蜃気楼」、『芥川龍之介 抒情の美学』大修館書店、昭57)によって指摘されている。同時代の読者も知っている現実の話題を作中に取り込むという手法が用いられているのである。これもまた、葛西の影響による手法であると考えることができよう。「椎の若葉」は新聞で話題になった葛西自身の暴力事件を題材とした作品であるが、六月十三日の「読売新聞」に葛西自身の釈明と併せてその報道が掲載されたことを作品中に書き記しており、事実大正十三年六月十三日の「読売新聞」にはその記事が掲載されている(注26)。現実の話題を作中に取り込むという手法として、特徴的なものと言えよう。
 こうした葛西からの模倣は一見、主人公の体験を現実の作者芥川龍之介自身に引きつけて解釈することを示唆しているように思われる。しかし、芥川の作品においては主人公が芥川龍之介であることまでは示唆されているものの、作品内のエピソードが作者自身の人格や心境に還元されることを志向していないという点にその特徴がある。現実を作品に取り込む手法に関して言えば、葛西の作品では作者自身に関する報道が導入されていることから作中で示された出来事と葛西自身の体験した現実とが強く密着しているのに対し、芥川の場合は蜃気楼という自然現象を作品の背景として取り入れたのみとなっている。また、自作を主人公について語らせている場面でも、葛西の作品ではその執筆意図や内容の解説が直接に行われているのに対し、芥川の作品では十年前の回想の中で友人の「K君」の性質を指摘する場面において言及されているのみであり、その言及から芥川自身の心境や執筆の実際などは立ち上がってこないのである。
 芥川がこれらの作品において、主人公を芥川龍之介自身として描いていることはまず間違いないと言ってよい。ただし、それが芥川の人格や心境を表白する意図によるのではないと想像されることは、既に論じてきた通りである。表現形式上のその他の特徴を概観した上で、では芥川がこれらの作品において心境ではない何を描こうとしていたのかについて論を進めていくことにしよう。
 このシリーズでは、冒頭部分に「………」という表記が用いられている作品が多いことが注目される。「死後」「年末の一日」「海のほとり」の三作がこれに該当するが、特に三章構成の「海のほとり」では各章すべての冒頭が同様の表記ではじめられているのである。それぞれの冒頭を確認してみよう。
「………雨はまだ降りつづけてゐた。僕等は午飯をすませた後、敷島を何本も灰にしながら、東京の友だちの噂などした。」(「海のほとり」一、『同第十二巻』280頁)
「………一時間ばかりたつた後、手拭を頭に巻きつけた僕等は海水帽に貸下駄を突つかけ、半町ほどある海へ泳ぎに行つた。道は庭先をだらだら下りると、すぐに浜へつづいてゐた。」(二、同283頁)
「………日の暮れも秋のやうに涼しかつた。僕等は晩飯をすませた後、この町に帰省中のHと言ふ友だちやNさんと言ふ宿の若主人ともう一度浜へ出かけて行つた。」(三、同288頁)
「………僕は床へはひつても、何か本を読まないと、寝つかれない習慣を持つてゐる。(中略)その晩も僕はふだんのやうに本を二三冊蚊帳の中へ持ちこみ、枕もとの電燈を明るくした。」(「死後」、同298頁)
「………僕は何でも雑木の生えた、寂しい崖の上を歩いて行つた。」(「年末の一日」、『同第十三巻』155頁)
 こうした表記が採用された理由として考えられるのは、作品の輪郭を際立たせることを避け、緩やかな形で語り起こそうとしていたのではないかということである。芥川は従来聞き書の体裁を用いるなど、枠形式を多用していた作家であった。特異な物語を提示する上で現実味を与える意図でそうした形式が選択されていたわけだが、そうした枠は同時に、作品の起点と終点とを明確に示す役割をも果たす。枠が与えられることによって、物語世界は現実とは切り離された異世界としての輪郭を鮮明にすることになるのである。
 一方、これらの作品において示された表記は、作品世界の輪郭を曖昧化させる働きを示していると考えられるのではないか。間を示す機能を持つリーダー(……)を作品の冒頭に配置することによって、語り続けられている物語を中途から聞き始めるような印象が与えられることになり、始点が朦朧化されているのである。これは、物語的構成を排除した作品の特徴に見合っており、全体を朧化し夢幻的な雰囲気を醸し出す上で機能していると言えよう。
 「死後」と「年末の一日」では、作品の末尾においてもリーダーが付されており、手法上の対応が見られる。「死後」の末尾は「しかも僕自身は夢の中の僕と必しも同じでないことはない。フロイドは──僕は一つには睡眠を得る為に、又一つには病的に良心の昂進するのを避ける為に〇.五瓦のアダリン錠を嚥み、昏々とした眠りに沈んでしまつた。………」(『同第十二巻』304頁)というものであるが、このリーダーは語り手としての「僕」の気分を反映していると考えられよう。結論や落ちを明示してしまうことを避け、「僕」の陥っている暗澹とした気分や雰囲気のみを伝えようとする手法なのである。これは、何もかもを文章によって説明しつくそうとする姿勢と対極にある手法と言うことができるのではないだろうか。末尾に結論めいた一文を示したり、どんでん返しを仕掛けることで落ちをつけるという初期以来の手法は、これらの作品すべてにおいて避けられている。作品世界の輪郭を際立たせず、曖昧で夢幻的な雰囲気を重視するという姿勢が表現形式のみからも看取されるのである。
 では、芥川は「『話』らしい話のない小説」の執筆を通して、内容的にどのようなものを描こうとしていたのであろうか。私は、「海のほとり」以降の一連の「『話』らしい話のない小説」では、その主題として、人間の無意識の領域についての探求が行われていたのだと考えている。一柳廣孝氏は「拡散する夢─『海のほとり』を中心に─」(平3・7、「人文科学論集」第48号)において、次のように書いている。

芥川龍之介には、夢を対象とした作品が数多く見られる。(中略)晩年の芥川の「夢」小説群には、意識/無意識の対立、相克と、そこから生じる、意識それ自体に自己の全てを託するあやうさ、不安定性を表徴するものが少なくない。彼の一連の「夢」小説の系譜は、芥川における「無意識」の認識の変化と深く関係しているのである。
 一連の「『話』らしい話のない小説」中、「悠々荘」を除く四作において、主人公「僕」の夢に関する言及が行われている。先に「死後」の末尾の部分を引用したが、そこでは夢についての言及とともに、「フロイド」という人名が示されていた。「海のほとり」では、「しかし顔を洗つた後でも、今しがた見た夢の記憶は妙に僕にこびりついてゐた。『つまりあの夢の中の鮒は識域下の我と言ふやつなんだ。』──そんな気も多少はしたのだつた。」(『芥川龍之介全集第十二巻』282頁)という箇所がある。また「蜃気楼」では、主人公が友人のO君に向かって前の晩の夢について語る中で、「『けれども僕はその人の顔に興味も何もなかつたんだがね。それだけに反つて気味が悪いんだ。何だか意識の閾の外にもいろんなものがあるやうな気がして、………』」(『同第十四巻』99頁)と述べている箇所が見られる。
 「識域下の我」はフロイトの無意識説以前のフレデリック・マイヤーズの用語から来た表現と考えられるが、大正期後半はフロイトの精神分析学が日本に紹介され、心理学や心霊学などに影響を及ぼしていく過渡期であった(注27)。芥川は同時代に日本に紹介されつつあったこうしたフロイトの精神分析学や、心理学、変態心理研究の動向に関心を持ち、そこで提示された夢と無意識との関わりを作品に取り入れることを試みていたと考えられるのである(注28)
 「『話』らしい話のない小説」の実践において、表現形式を志賀と葛西に借りつつも芥川がモチーフとして追求していたのが、無意識の世界の探求ということであった。意識できないもの、意識にのぼることがないゆえに言語化し得ないようなものを描出しようとすることが、この作品群において目論まれていたのである。
 ここで問題となっている「意識の閾の外」や「識域下の我」は、「文芸的な、余りに文芸的な」に見られる次のような芥川の言葉と関連させて考えることができるのではないだろうか。即ち、「二十七 プロレタリア文学」における「僕等を造つてゐるものはいづれも僕の意識の中に登つて来るとは限らないのである。」(『芥川龍之介全集第十五巻』193頁)という発言、そして「三十六 人生の従軍記者」における「僕等は実に種々雑多の因縁を背負つて生まれてゐる。その又種々雑多の因縁は必しも僕等自身さへ悉く意識するとは定まつてゐない。」(同219頁)という文章などがそれである。中でも注目すべきは、「闇中問答」(遺稿、昭2・9)における「僕の意識してゐるのは僕の魂の一部分だけだ。僕の意識してゐない部分は、──僕の魂のアフリカはどこまでも茫々と広がつてゐる。僕はそれを恐れてゐるのだ。」(『同第十六巻』21頁)という文章である。意識し得ないにも関わらず「僕等を造つて」いる「雑多な因縁」、それは晩年の芥川にとって、意識によって統括しうる部分以上の重要性を持つもののように感じられていたのである。
 一つ指摘しておきたいのは、こうした無意識の探求というモチーフと、「詩的精神」との関わりということである。芥川は、文芸作品に芸術的価値を与えるものとして「詩的精神」を構想し、それを「魂」や「純粋な作家の面目」といった、作者の属性ではあるものの作者自身によって意識的に統括し得ないものの反映として考えていたのであった。意識し得ない部分こそが人間を造る重大な要素なのだ、という晩年の芥川の発想は、大正十二年以降の芸術観上の屈折と結びつく形で浮上してきた観念だと考えることができるのではないだろうか。
 芥川がこのシリーズにおいて行っていたのは、人間の無意識の領域を意識的に表現する、という無謀とも言える試みであった(注29)。芥川は「『話』らしい話のない小説」において、志賀と葛西とに形式を借りることで従来の表現技法を脱却したが、彼らから「詩的精神」までを模倣しようとしたのではなかった。芥川はそのことの不可能性をはっきりと自覚していたはずである。しかし、芥川は自らの「魂」や無意識が作品に与える価値を無条件に信じることができず、しかもそれに対する畏怖の強大さゆえに、自らの「詩的精神」の価値を問うことを回避することもできなかった。無意識の領域を描こうとするこれらの作品における試みは、無意識をすら意識によって統括しようとする傲慢な発想から生まれたものではない。むしろ、意識の徹底した追及の果てに意識の限界に到達してしまった作家が、畏怖の念に駆られつつも意識し得ない無意識の探求へと向かわざるを得なくなったという葛藤にこそ、この作品群のモチーフがあるのである。
 長沼光彦氏は「『蜃気楼』の空間」(平7・3「新潟大学国語国文学会誌」37、『芥川龍之介作品論集成第六巻 河童・歯車』翰林書房所収)において、「蜃気楼」の主人公「僕」が遭遇した出来事や事物に対して様々な想像をめぐらし意味づけを与えようとすることを指摘しつつ、それは「自由な連想に基づく結びつきではなく、自己の意志とは無関係に、否応もなく〈僕〉の意識に浮かんでくるもの」であり、その連想は「意識で支配できるものではない」と論じている。
 具体的には、主人公が牛車の轍に「圧迫に近いもの」を感じ、「逞しい天才の仕事」を連想したり、砂に打ち上げられた木札から「日本人の母」を持つ混血児の青年を想像するなどの場面が挙げられるのだが、いずれの連想も、その結びつきは通常一般に共有できるものでなく、必然性がない。にも関わらずその結びつきは「僕」にとって、「圧迫」を感じるほどに緊密で切実な自明なものとしてあるのである。これは、「僕」が自分の周囲に起こる出来事をすべて、「識域下の我」の投影と見てしまっているという事態であると言い換えられるのではないだろうか。「蜃気楼」では、かつて一度しか会ったことのない、印象が強かったわけでもない人物の顔が夢に現れたことに関して「意識の閾の外」を認識し、「気味が悪い」と感じる場面が書き込まれているが、そうした夢と無意識との関係は作品全体の基調をなしている。この作品の主人公「僕」は、夢だけでなく日常的な現実の些細な場面にまで「意識の閾の外」の反映を感じとってしまうような人物として描かれているのである。
 こうした特徴は「蜃気楼」において最も顕著なのであるが、同じシリーズの他の作品にも同様の傾向は見られる。「死後」と「年末の一日」では、夢の内容や想像に浮かぶ悪いイメージが現実の「僕」の生活や体験と二重映しになることの無気味さが描かれている。また「悠々荘」では、廃墟と化した建物を眺めながら「僕」が友人二人とともに元の住人を想像していくのであるが、ベルを押してみた「僕」は、「ベルは生憎鳴らなかつた。が、万一鳴つたとしたら、──僕は何か無気味になり、二度と押す気にはならなかつた。」(『芥川龍之介全集第十四巻』6頁)と、突如として「無気味」な気分に襲われている。それまでの一般的な連想に関しては友人たちと共有していたにも関わらず、この箇所の「無気味」さの印象だけは、「何か」とその理由が示されないままに描かれているのであり、自分一人にとってのみ切実な「識域下の我」がそこに投影して感じられた場面として読むことができる。「海のほとり」は「識域下の我」という語こそ登場するものの、無意識の現実への投影といった側面は薄いが、このシリーズの最初の作品であったことからその意図が貫通しなかったものと捉えることができよう。
 芥川が「『話』らしい話のない小説」において書こうとしていたのは、作者の人格や心境ではない、ということをこれまで繰り返し指摘してきた。人格とは過去から現在・未来にわたって一貫したものとして統一的に捉えられる人物像のことであると考えられる。心境とはそうした確固とした人格を基盤とし、個々の状況に対して感覚され示される心情のことであると言えよう。一方、これらの作品において行われていたのは、あらゆるものに「意識の閾の外」にあるはずの何ものかの投影を見てしまうという特殊な精神状態の人物を捉え、その行動と心の動きを示すことによって、意識することができず表現することもできないはずの「識域下の我」を描き出そうとする試みであった。主人公の「僕」は「識域下の我」の日常への侵食に振り回され、確固とした自己像を描き得なくなっている人物として造型されているのである。この主人公は芥川龍之介自身として描かれているように思われるが、作中で示されている主人公の行動や感覚から、芥川の人格を感じ取ることは不可能である。識域下の無気味さに脅える芥川の心情を描いた、と読むことは可能かもしれないが、そのことによって立ち上がってくる作家像は貧相なものにならざるを得ないだろう。そのような解釈では、これらの作品が持っている魅力や可能性を抑圧することにしかならない。
 芥川がこれら一連の「『話』らしい話のない小説」によって描こうとしたのは、ある一つのイメージ、「意識の閾の外」が現実に投影され、無意識が日常に浸食してくる瞬間の無気味な印象、その色や手触りといった感覚的なものであったのではないだろうか。坪井秀人氏は「『蜃気楼』論──芥川龍之介の〈詩的精神〉──」(昭58・9「名古屋近代文学研究」第一号)において、「蜃気楼」における松や海、砂浜の描写や音や匂いに関する描写を抽出した上で、次のように述べている。
これらの情景はそれぞれ意味深くはあっても物語の筋の進行には何の影響も及ぼさない。しかしその一つ一つは話の筋に比べてもいっそうあざやかに「気味が悪い」心象を表し尽しているともいえるのである。「気味が悪い」できごとや話を取っ払ってもそれを溶かしこんでいるこれらの意識的な〈風景〉のために私たちはやはり「気味が悪い」。しかも各各の情景は互いに関連を持ちつつ統一感をも与える。
 芥川は、直接には決して描き得ない人間の無意識の領域を表現するために、五感を駆使した描写を繊細に行うことによって、特殊なイメージや印象によってそれを描こうとしていたのであった。芥川が重視していたはずの〈小説〉の物語性・説話性は、これらの作品においては殆ど顧みられていない。坪井氏は同じ論文の中で「蜃気楼」が「場面と場面との有機的な連結」を無視した断片の組み合わせであると論じているが、芥川が「話の筋」といった「通俗的興味」をできる限り排除し、細部の集積によって一つのイメージを作り出すことを意図していたことを考えれば、そうした形式が採用されたのは当然のことと言えよう。芥川は物語性を徹底して拒否し、感覚的な描写によって特殊なイメージとしての「或感じ」を表現しようとしていたのであった。ここでは識域下を描くというモチーフにおいて「詩的精神」の源泉の探求がなされているだけでなく、認識的要素を極力排しつつ情緒的要素を強調し、「或感じ」の美としての「詩的精神」を浮かび上がらせようとする表現形式上の探求もまた行われていたのである。
 芥川は「『話』らしい話のない小説」の行き着いた極点とも言える「蜃気楼」において、小説の表現の新たな可能性を指し示すある達成を成し遂げたのであった。「蜃気楼」以前の他の四作がすべて同様の効果を表現し得ているとは無論言い難い。志賀や葛西の形式的な模倣を出発点とし、作者自身を主人公として設定したことによって、「海のほとり」などにおいては体験をモチーフを生かすために昇華しきれずに、作者自身の現実性に依拠した解釈を誘発する傾向が強まっているようにも思われる。しかし、いずれの作品も同じモチーフを担いつつ、そのための手法を模索していく過程で書かれた作品であることは確かであると言えよう。
 これらの作品群が芥川が実際に経験したエピソードを題材としていることは妻の証言その他によって明らかであるが(注30)、ここで描かれているイメージは、むしろそうした芥川固有の具体的現実性を超えた抽象性を獲得していると言えるのではないだろうか。これらの作品では「無気味」という語が頻出しているが、それは主人公の「僕」が「識域下の我」から感じ取っているイメージの端的な表現にほかならない。それは本来は主人公の「僕」に固有の感覚に過ぎず、また「僕」を芥川龍之介自身であると捉える立場からは、芥川の「識域下の我」の探求を描き出した作品ということになるであろう。しかし、特に「蜃気楼」に関して言えば、坪井氏の指摘するように、その無気味さのイメージは風景や主人公の言動の描写全体に貫かれていることによって読者にも鮮烈に体感されるものとなっている。「意識の閾の外」という、あらゆる人々に関連しつつも決して直接には捉え得ないもの、捉え得ないゆえに神秘であり畏怖の念を喚起し続けるようなものを感覚に訴えるイメージによって描ききっていることによって、芥川自身のリアリティを離れた表現となり得ているように思われるのである。
 「『話』らしい話のない小説」群において、芥川が従来の作風や技巧を一旦すべて否定することを試みた、と論じてきた。しかし、一つだけ例外を指摘することができるように思われる。それは、第一部三章において指摘した、「蜜柑」における文体と表現における技法である。芥川は「通俗的興味」をできる限り排除したが、そこで否定されたのは、語りの〈場〉の設定や単線・複線構造の構成などであった。現実の再現としての言葉のあり方を認めず、表現の彫琢を旨とする表現意識・言語意識は、これらの作品でも確固として貫かれているのである。そしてそこにこそ、芥川文学の一貫した特徴を見ることができると言えるのではないだろうか。
 

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(注22)三嶋譲「芥川龍之介『蜃気楼』試論──『海のほとり』から『続海のほとり』へ──」(昭52・11、「佐世保工業高等専門学校研究報告」第14号)、阿毛久芳「『海のほとり』の周辺」(昭54・7、「稿本近代文学」第2集)、神田由美子「芥川龍之介における〈私小説〉──『海のほとり』について──」(昭58・10、「目白近代文学」第4号)などに詳しい。  (もとのところへ)

(注23)三嶋譲氏は前掲の論文において、「Nさんがながらみ取りに『風呂にお出で』と声をかけるところとKさんがお札売りに『お湯に入りなさい』と言うところ、友人のMがティッペラリイの口笛を吹く箇所と友人の画家Sさんがドナウ・ウェレンの口笛を吹く箇所といった細部の描写まで酷似している」と指摘している。  (もとのところへ)

(注24)三嶋譲氏は「芥川龍之介晩年の芸術観」(昭55・12、「福岡大学人文論叢」第12巻第3号)において晩年の芥川に関して、「現存する〈私〉をなんらの介在物なしに作品の〈私〉に直接結びつけたいという内的欲求が、彼をして『詩的精神』さらには『筋のない小説』を要請させた」と論じている。この論文は芥川の晩年の芸術観を同時代の文脈において捉えようとする点で本論とも問題意識を多く共有する示唆的な論であるが、芥川の晩年の芸術観が同時代の心境小説論とは一線を画していることを指摘しているにも拘わらず、晩年の作風の分析においては心境の表白や告白を重視する同時代以来の鑑賞のモードを対象化しきれていないように思われる。本論は、芥川が「『話』らしい話のない小説」において追求していたのは「〈私〉の真の表現」といったことではないとする立場をとる。  (もとのところへ)

(注25)一人称の主人公が「K」というイニシャルで示されている作品はいくつかある。また、唯一の例外としては「椎の若葉」という作品があり、作中に「吾輩善蔵君」という表現が登場している。  (もとのところへ)

(注26)「読売新聞」三面下の欄に、「恋人の…いきさつから葛西善蔵氏暴る 仲裁者の睾丸を蹴り昏倒さす」との記事があり、その横に「葛西氏は語る 悪意ある宣伝だらう」というコメントが掲載されている。  (もとのところへ)

(注27)日本でのフロイト受容の変遷に関しては、一柳廣孝「〈夢〉の変容──近代日本におけるフロイト受容の一面──」(平10・12、「名古屋近代文学研究」第16号)に詳しい。  (もとのところへ)

(注28)田口律男氏は「芥川文学に於ける狂気とモダニズム」(平9・10、「日本近代文学」第57集)において、「芥川自身は、フロイトの文献に直接触れた形跡がない」と指摘しつつ、芥川が森田正馬著の「神経質及神経衰弱症の療法」(大15・5)などによってフロイト理論に接していたのではないかと論じている。  (もとのところへ)

(注29)坪井秀人氏は「『蜃気楼』論──芥川龍之介の〈詩的精神〉──」(昭58・9「名古屋近代文学研究」第1号)において、芥川が「海のほとり」において「合理的思考では量り知ることのできない〈無意識〉の世界を描き始め」たと述べている。  (もとのところへ)

(注30)「海のほとり」に関して言えば、談話筆記による芥川の回想記「微笑」において、「僕が大学を卒業した年の夏、久米正雄と一緒に上総の一ノ宮海岸に遊びに行つた。」(『芥川龍之介全集第十三巻』16頁)と、「海のほとり」の題材となった体験を回顧して語っているのが見られる。また「蜃気楼」については、芥川文『追想 芥川龍之介』(中野妙子記、中公文庫)に、「『蜃気楼』の中に、主人とO君と私とが、暗い浜辺を歩いている所があります。(中略)鈴の音は、私が袂の中に入れていた子供のセルロイドのおもちゃでした。/O君というのは小穴さんで、私達は、暗くなってもよく浜辺を散歩しました。」といった記述がある。  (もとのところへ)
 

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