葛西善蔵論──「椎の若葉」を中心に──
 

         はじめに

 葛西善蔵の作品は、大まかに三つの時期に分類することができる。同時代の用語に倣い、誤解を恐れずに敢えて名づけるならば、第一に自伝小説の時期、第二にモデル小説の時期、そして第三に心境小説の時期である(注1)。この変化は、葛西の作品を表現形式に着目して分析することで析出しうるものであると同時に、同時代の文壇の状況との密接な関わりをもつものでもある。
 これまでの研究によって、私小説という用語が初めて用いられたのが大正九年九月であり(注2)、大正一三年以降の心境小説論議を待って私小説・心境小説の肯定的な概念化が行われたということが明らかにされてきている。葛西の作品は、私小説という語が成立し、その概念が徐々に書き換えられていくその過程と、まさに呼応する形で変化していると考えられるのである。
 本稿では、葛西善蔵の作品の形式面、特に語りにおける人称や呼称の問題に注目し、その変遷を具体的に跡づけることを目的とする。また、葛西善蔵の作品が同時代においてどのように評価されていたかを確認し、当時の文壇や批評壇の動勢を考慮しながら、葛西の位置づけを捉えかえしてみたい。表現形式の変遷とその時代的な意義とを照らし合わせることで、新たな葛西像を浮かび上がらせることが狙いである。
  従来の葛西研究は実証主義的伝記研究と印象批評的作家論とに大別されるが、芸術と実生活という問題を第一義として葛西文学を捉える点では共通している。葛西善蔵を私小説作家として捉えることから葛西の作品全体が一枚岩であるかのような幻想が生まれ、作品へのアプローチの仕方が限定される事態となっていたのである。
 葛西の作品の殆どが作者本人の実生活上の体験に基づいて書かれているのは事実であり、先に示した三期の作品とも、その点では共通している。しかしその提示の仕方、作品の構成の仕方は決して一様なものではない。その変化を分析することを通して、作品造型における葛西の意識的な戦略など、これまで明らかにされてこなかった葛西善蔵の一面に光を当てることができるものと考えている。
 また、私小説作家としての葛西善蔵を考える際にも、その概念を前提とするのでなく、むしろ彼がいかにして私小説作家になったのか、という経過こそを問う視点が必要であると考える。私小説という語の成立や概念化にあたって葛西善蔵の作風がどのような役割を担っていたのか、作家主体と時代思潮との関わりを遡及的に捉えかえす試みとしたい。葛西文学の作品造型の特徴や、その変化の行末を最も端的に示している作品として「椎の若葉」を取り上げ、特に詳細に検討することとする。本稿末尾に添付した、葛西の全作品を語りにおける人称において示した一覧表を、適宜参照していただきたい(一覧へ)

       一

 葛西善蔵の作品が同時代の文壇からの注目を集めるようになったのは大正七年のことであるが、大正八年三月に第一短篇集『子をつれて』が刊行されるに至って、葛西評価は急激に上昇する。この大正七・八年という比較的初期の時点から、葛西善蔵の作品は作者自身の身辺を描いた小説として読まれていた。「最も多く自己の生活を描くものゝ一つである」(大正七年八月八日「雄弁」第九巻第九号「新進の作家を評す」中村孤月)、「自己の身辺ばかり書く人」(大正七年一一月一六日「時事新報」「霜月の文壇の話〔七〕」久米正雄)、「氏の作品は多く題材を自己及び自己の周囲にとつたもの許りであるらしい」(大正八年一月一日「雄弁」第一〇巻一号「最近文壇に於ける新人四氏(時評)」江口渙)といった批評がそれを示している。
 新潮社による『子をつれて』の広告には、「リアリズムの大道に其の堅実の歩を刻み、生活そのものゝ中より生ける芸術を打出するの人」「艱難を忍び貧乏と闘ひ、あらゆるものを捧げ尽くして、只管に『真』の芸術に奉仕す」(大正八年三月「文章世界」第一四巻第三号掲載のものを引用)との謳い文句が示されているが、この時期には葛西善蔵と徳田秋声との類似を指摘する批評も多く書かれるなど、葛西は自然主義リアリズムの系統を引く自伝作家として、まずは認知されていたようである。大正八年四月には「新潮」(第三〇巻第四号)において「人の印象(二十七)葛西善蔵氏の印象」の特集が組まれ、葛西の知人・友人の言及によって、貧乏、寡作家、酒、芸術至上主義、東北人といった葛西善蔵本人に纏わるイメージが出揃うことになる。
 短篇集が絶賛されることで葛西は文壇内で確実に地位を固めていくが、葛西の作品をめぐって物議を醸すことになるのが、小説のモデル問題である。広津和郎は大正八年一一月の「新潮」(第三一巻第五号)に掲載された「鎌倉より」において、次のように抗議している。

『不能者』がさうだ。『風聞』がさうだ。又今まで書いたものの中でも、『子をつれて』の一部とか『兄と弟』の一部とか、『遁走』とか云ふものがみんなさうだ。──自分が好い児になつてゐると云ふ、ただそれだけの事なら未だしも差支へないが、好い児の相手に出された人間は、怖ろしい槍玉に揚げられる。作者はこれ等は芸術品であつて、実際のモデルを取扱つたのではないと主張するかも知れないが、さうだとすれば、作者の趣味が余り片寄り過ぎてゐる。そしてそれは又悪趣味と云はなければならない。/かねがね此作者に望んでゐる事ではあるが、かうした狭い境からは、一時も早く作者が解放される事が望ましい。
 具体的には、『不能者』が萬造寺斉を、『風聞』が富田砕花を、『遁走』が相馬泰三ら雑誌「奇蹟」出身の作家達をモデルとし、そのモデルをこきおろす形で描かれているのである(注3)。また、ここでは言及がないが、広津和郎自身もまた『遊動円木』においてモデルにされている。各登場人物が文壇の誰をモデルにしているか、という話題は絶えず文芸誌のゴシップ欄などで取り沙汰されていたのであり(注4)、文壇内の交友関係に精通している人のみならず、文壇的読者であれば誰でも、そのモデルを念頭に置きながら作品を再読することが可能な状況が起こっていたと言うことができるだろう。
 ここで指摘されているのはすべて大正七年以降に発表された作品であり、また、「子をつれて」を除いた他の作品は、第二短篇集『不能者』収録のものばかりである。『子をつれて』が、雑誌「奇蹟」に発表された作品群を中心とし、文壇の主要な雑誌に進出する以前の葛西の作品を集めた短篇集であったことを考え合わせれば、モデル小説が書かれるようになったのは、葛西が文壇で認められはじめた時期と符合することがわかる。自己の生活を題材とする自伝小説から出発した葛西は、同時代の文壇との関わりが濃くなるにつれて、むしろ自分の周辺の文壇内の作家をモデルとした作品を書く方向へと歩みを進めたと考えられるのである。
 では、『子をつれて』『不能者』収録の作品の特徴について、具体的に見ていきたい。
 葛西善蔵の初期作品においては、主人公の人称は三人称「彼」で示されている例が多くなっている。大正二年二月の「池の女」が「男」という表記で統一されているほか、大正七年七月の「雪をんな」が「私」という一人称であるのが例外であるが、この二作は葛西の身辺小説ではないという点が注目される。最初期においては、自己の身辺を題材とした作品においては必ず「彼」という三人称が用いられていたと言うことができよう。
 この時期の作品では、主人公は固有名を持つ存在として表されている。語りにおいて主人公を指し示す際には「彼」が用いられているが、登場人物同士の会話の中で、主人公の姓名が示されるのである。「悪魔」「子をつれて」の登場人物が、雑誌「奇蹟」の同人たちとそれぞれ対応していることは大森澄雄氏の論などで既に詳細に検証されているが(注5)、これらの登場人物たちは実名ではなくそれぞれ作品ごとに異なる固有名を与えられていたのであり、シリーズの体をなすこともなく、一作一作が独立した形で構成されていると言うことができるだろう。
 葛西自身の生活に題材を取った作品が初めて一人称で書かれるのは、大正七年一一月の「遁走」からである。「遁走」はのちにモデル問題で大きく取り上げられた作品であり、自伝小説からモデル小説への転換の契機として注目されよう。以降、「泥沼」(大正八年一月)、「急行券」(大正八年四月)など一人称の作品が書かれるようになっていく。「遁走」と「泥沼」においては、主人公はそれぞれ馬越と山田という姓を持つことが示されているが、「急行券」では固有名は示されていない。大正八年の十月には「風聞」「遊動圓木」「無心に」の三作が同時に発表されているが、いずれも一人称「私」による作品であり、主人公の固有名は示されなくなっている。この時期に至って、葛西の身辺小説は、三人称「彼」から固有名を持たない一人称「私」への移行を完了したのである(注6)
 先に示したように、ゴシップ記事や人物印象記を通して葛西本人の生活やその交友関係が多く露出するようになり、文芸雑誌を毎月購読するような文壇的読者が、そうした予備知識をもとに作品を読解し得るような態勢が整ったのも、大正八年のことであった。葛西の作品における人称の変化と文壇的読者の読解の枠組みの形成とが同時に起こったという意味で、一つの大きな転換点をなしていると言えるだろう。
 こうした小説のモデル問題というのは、葛西善蔵に限ったことではなく、もっと広く当時の文壇全体で起こっていた一つの傾向であると指摘することができる。葛西善蔵が三人称から一人称へと形式を改め、自伝小説からモデル小説へと向かった契機として「遁走」が挙げられることは先に指摘したが、この「遁走」は、〈B──軒事件〉と一般に呼ばれる、「奇蹟」出身の作家間で起こったある出来事をもとにして書かれている。この同じ出来事は他に広津和郎が「針」、相馬泰三が「B──軒事件」というタイトルでそれぞれ大正九年一月に作品化しており、またもう一人の当事者である谷崎精二も「モデルと其の真実性」(大正九年四月一日「文章世界」第一五巻第四号)という文章でこの出来事について書いているのが見られる。
 〈B──軒事件〉とは具体的には、相馬泰三が大正七年六月に刊行した長編小説『荊棘の路』の出版記念会をめぐって起きた友人間の諍いを指すのであるが、この『荊棘の路』が「奇蹟」出身の作家達を登場人物のモデルとし、しかもそれを極端に戯画化して否定的に描いていたことに端を発している。谷崎精二は前掲の文章の中で、『荊棘の路』について「其等のモデルと、モデルに対する実際的興味を取去つたら、一体何が残るだらう?」との批判を呈している。
 また、相馬の作品の出た一月後には、菊池寛が「無名作家の日記」を発表して本格的に文壇へ登場するが、この作品もまた、第四次「新思潮」出身の作家をモデルとして書かれた作品であった。菊池は大正八年三月には芥川龍之介をモデルとした「餓鬼」を、九月には久米正雄をモデルとした「友と友の間」を、大正九年一月には同じく久米をモデルとした「神の如く弱し」を発表している。また、久米正雄も大正八年一〇月に第四次「新思潮」と「人間」の作家をモデルとした「良友悪友」を発表して話題を呼ぶなど、赤門出身の作家の間でもモデル小説が頻発するのである。
 大正九年二月の『新潮』(第三二巻巻第二号)「不同調」欄には、
相馬泰三氏の「B軒事件」広津和郎氏の「針」お互にお互を書いてゐる而して、作品の上で悪口を云ひ合つてゐる。一種の共食現象であるが、しかし、一面から見れば互に材料を供給したつて、原稿料のタネになりつこをしてゐるのだ。寧ろ相互扶助の一形式と見てよからう。/白鳥、秋江の昔からこのかた、共食は早稲田の特色のやうに思つてゐたが、近頃では、赤門派の方でも盛んにこれをやつてゐる。菊池寛氏の「神の如く弱し」を見たまへ。久米正雄氏の「良友悪友」を見たまへ。/更に水上瀧太郎氏の「友情」を見ると、オヤオヤ、三田の方でも始まつてゐるワイ。
との記述がある。モデル小説の流行は、自然主義の系譜を引く早稲田系の作家に限らず、赤門や三田出身の作家にまで及んでいたのである。
 平野謙は「私小説の二律背反」(『平野謙全集第二巻』新潮社)において、大正八年頃のこうした文壇交友録小説の源流は白樺派の「天衣無縫の自己表白の文学」であるとし、「作家であるという自恃に裏づけられ、作家たるものの行蔵が一般読者の興味をひかぬはずはないとするエリート意識が、大正八年ころまでに文壇交友録小説の氾濫をうながし、ひいてはわが国固有の私小説の成熟をもたらした」と論じている。実際に、この時期のモデル小説(=文壇交友録小説)がのちに用語として成立する私小説の基盤となっていたことは確かであろう。また、この時期のモデル小説が自然主義勢力だけではなく、また学校ごとの派閥のいずれかに偏ることもなく、当時の新進作家全体を巻き込んだ機運であったということは、それがそれ以前に強大な勢力を持っていた自然主義と人道主義の文学を止揚する意思のもとに胚胎したものであったためと見ることができるだろう。その意味では、モデル小説の源流を白樺派に見ることも可能である。
 題材の狭隘や作家相互の悪意の表白といった側面から、モデル小説は負の印象を帯びており、同時代から批判的に語られることが多く(注7)、また最近でも「大正文壇の確立とその裏返しの硬直化」(注8)と論じられている。しかし、この時期のモデル小説の隆盛が、既成の文学勢力を乗り越えようという当時の新進作家達の意思とその形式とが合致したために起こったと捉えるならば、そこに積極的な意義を見ることもできるのではないだろうか。
 葛西の「遁走」や、それ以降の一群のモデル小説は、こうした文壇全体の流れの中で登場し、読まれたものであると言うことができるだろう。しかし、葛西の作品は次第に単なるモデル小説の域を脱し、文壇の中でも特異な位置を占めるようになっていくのである。その原因は、先に指摘したように三人称から一人称へと徐々に作品の形式を統一していき、主人公がすべての作品で同一であるかのような仕掛けをしていったこと、そしてやがてその傾向が一層深化して、作家同士の交友によるモデル的興味ではなく、作家自身の心境に対する関心から作品が読まれる方向へと作品の構造を変えていったことにあるのである。恐らくそれは、私小説や心境小説という語の成立や概念化とも関わってくるはずである。

       二

 葛西の身辺小説の系譜に、次に大きな変化が見られるのは、大正九年十月と十一月に発表された「暗い部屋にて」以降の一群の作品においてである。「暗い部屋にて」は〈おせいもの〉と呼ばれる作品群の最初の作品にあたり、おせいとは葛西の愛人であった浅見ハナをモデルとした人物であるとされている。本稿末尾の表において、〈おせいもの〉の作品には※印を付してあるので参照されたい。
 〈おせいもの〉が葛西の作品の系譜において重要なのは、おせいという名の人物が複数の短編小説にわたって登場することによって、一連のシリーズを構成したことにある。先にも指摘したように、初期の葛西の作品においては個々の小説は独立しており、登場人物には作品ごとに異なる固有名が与えられていた。同じように葛西自身の身辺を題材として描かれているのではあっても、シリーズをなしていたわけではなかったのである。
 葛西の作品について直接言及したものではないが、大正八年一二月の「文章世界」(第一四巻第一二号)に掲載された「自叙の作品」という文章の中で、原英男は「題材を自己に求める」作品について論じている。原は「短篇の多い今の創作界で最も作者に懐しみを感ずるは、其の芸術が有機的関係に於かれてゐる時である。シリーズに出会つた時である。」と論じ、また、自伝的な作品においては「作家自身の鑑賞的気分が充分の洗練をされて居るはず故、その作品に自然に溢れ出て来る懐しみがあるので、読者がその作家と気分の交流を作り得るに好都合」であると指摘している。作家が自己の身辺に題材をとることを肯定的に捉えている同時代の言説として注目されよう。
 葛西の〈おせいもの〉は、ここで言われている「有機的」シリーズの利点をまさに実現した作品群であったと言うことができるのではないだろうか。短篇としての形式を維持しつつも、同じ人物を複数の短篇にまたがって登場させることによって、主題や構成において一貫性を作り出すことができる。しかも、その作品が作者自身の生活を描いたものであると見なされる場合には、読者のそのシリーズに対する印象は作者に対する「懐しみ」に直結することになるのである。葛西は〈おせいもの〉をシリーズとして書くことによって、読者に作家葛西善蔵と「気分の交流」を作り得たと感じさせ、葛西への親しみ、「懐しみ」を抱かせるよう促したのだと見ることができるだろう。
 「暗い部屋にて」以降の作品の特徴としては、主人公の「私」が「K」というイニシャルによって示される例が出てくることが挙げられる。「K」とは作者葛西善蔵のイニシャルとも一致するのであり、一人称の主人公を葛西本人に引きつけて読んで欲しいというメッセージとして読みとることができるだろう。
 また、作品中の語りにおいて、その作品を 〈書く〉 行為についての自己言及が初めて登場するのも、「暗い部屋にて」においてである。具体的には、「だが、私も、斯うは書いて来たものゝ、Tのことばかし悪いやうに書いて来たものゝ、しかし事実の真相と云つたやうなものは、無論他人の私なんかに分つてたまるものではない。」(『葛西善蔵全集 第二巻』文泉堂書店、七三頁、傍点引用者以下同様)、「私はいろく彼の悪口を書いて来たが、併し真実から彼の幸福を祈つてゐるものだ。/私はT夫妻のことも、いろく書くはずだつたのだが、書く気がしなくなつた。」(同一〇〇頁)という二箇所である。一人称の主人公であり作家である「私」=「K」が、その作品自体を「書く」作者であるとされているのである。こうした箇所もまた、主人公を葛西善蔵本人と結びつけて読むようにと読者を誘導する役割を担っていると考えられるであろう。同様の用例は、「仲間」(大正一〇年九月)、「蠢く者」(大正一三年四月)、「椎の若葉」(同七月)、「湖畔手記」(同一一月)、「弱者」(大正一四年八月)、「父親」(大正一五年八月)にも見られる。
 作品中で葛西善蔵の別の作品についての言及が行われる用例というのもいくつか見られる。最も早いものは大正一二年八月の「M君との話」であり、「この前あなたの社のA君に取つちめられて、僕は暴風雨の夜明け、二三日前の雪の残つてゐる時だつたが、半僧坊へお参りに出かけて、(朝詣り)と云ふ、六枚ばかしのものを書いて、お茶を濁したことがありましたが、今度はさうはいかんぢやありませんか。」(『葛西善蔵全集 第三巻』文泉堂書店、四頁)という箇所において、大正一一年二月発表の「朝詣り」という作品について示されている。ほかにこうした用例が見られる作品に、「椎の若葉」(大正一三年七月)、「死児を産む」(大正一四年四月)、「われと遊ぶ子」(大正一五年一月)、「酔狂者の独白」(昭和二年一月)がある。
 このように、後期の葛西の作品においては、主人公を作者葛西善蔵自身に引きつけて読むべきとする示唆が作中に示される例が多く見られるのであり、作者が意図的に、作中の主人公と葛西本人とを同一視するようにと読者の〈読み〉を誘導していたことがわかる。初期の個々に独立した作品構成から一人称小説へ、そしておせいをキーパーソンとしたシリーズ化と主人公を作者本人と同一視させる仕掛けの登場へという変化は、まさに、葛西が同時代の文壇的読者を強烈に意識しながら、いかに効果的に読者に訴えかけるかという計算によって戦略的に作品の構成を選び取っていったことを示しているのである。
 こうした後期作品における葛西の戦略が最も端的に表れているのが、「椎の若葉」という作品である。〈おせいもの〉の一作として発表されたこの作品では、主人公を作者葛西善蔵本人と同一視させる仕掛けが幾重にも施されているのが見られる。
 「椎の若葉」において、その作品自体を 〈書く〉 行為についての自己言及は、次のような箇所に見られる。

僕は何処までも小説のつもりで話してゐるのだから、いろく本当の名前を挙げては悪いのだが、僕は自己小説家だから云ひますが、読売新聞社が其の晩に電話を掛けて呉れて、翌朝の新聞に何行かの僕の釈明を載せて呉れたことは非常にありがたく思ふ。(『葛西善蔵全集 第三巻』文泉堂書店、八六・八七頁)
 〈書く〉 のではなく「話して」という表現になっているのは、この作品が葛西の口述を古木鉄太郎が筆記するという談話筆記による作品(注9)であるためであろう。ここで語り手は、自分は「自己小説家」であるから「小説」ではあるけれども事実に基づいて「本当の名前」を挙げるのだと表明している。実際に、この作品ではおせい以外の登場人物は全て実在するモデルの実名で示されているのである。おせいの父親が「浅見安太郎」という人名そのままで登場していることから、おせいが実在の浅見ハナをモデルとしていることも疑いない。おせいが例外的に実名以外の固有名を与えられているのは、おせいをキーパーソンとすることで一連の作品群をシリーズ化しようとする葛西の戦略上の意図から来ているものと考えられるだろう。
 この箇所でもう一つ重要なのは、読売新聞の記事について言及されていることである。作品では「其の晩」が六月一二日、「翌朝」が六月一三日にあたることが明示されているが、実際にこの作品が発表される二週間ほど前にあたる大正一三年六月一三日の「読売新聞」には、「恋人のいきさつから葛西善蔵氏暴る 仲裁者の睾丸を蹴り昏倒さす」という事件の記事が掲載されており、その横に「葛西氏は語る」として葛西の釈明の談話が併せて載せられているのである。新聞という現実のメディアによる報道について作品中で言及し、しかもそれを正確な日付で提示することで、作品と葛西自身にまつわる現実との境目は曖昧化され、一体のものであるかのように示されていると言うことができよう。
 本文中の語りにおいて、葛西善蔵の過去の作品についての言及もまた見られる。具体的には、「雑誌『改造』に『不良児』といふ、それこそは事実の記録なんですが、それを書き、」(同八七頁)、「小池さん──『蠢くもの』──の中に出て来てゐる人事相談のお方なんだ」(同九〇頁)、「我輩の手は呪はれた手なんだ。『呪はれた手』といふ小品を書いたこともあるが(中略)打つまじきものを打つた、この手に呪ひあれ、呪はれた手であるといふ心持から『呪はれた手』といふのを書いて二度三度これを繰返してはならない、さう思つてゐるわけなのですが」(同九四頁)という三箇所において、三つの作品が取り上げられている。ここでは、葛西善蔵の過去の著作を主人公の作品として提示することによって、葛西本人と主人公とを同一人物として理解するよう読者に促しているものと考えられよう。また、過去の作品と「椎の若葉」の作品世界との間につながりを示すことによって、シリーズとしての読解をも要請しているのである。
 ここまでに指摘したような例は、「暗い部屋にて」以降の他の作品においても見られる特徴であった。しかし、主人公と作者本人とを同一視させる仕掛けにおいて「椎の若葉」が特に注目されるのは、作品中で主人公が自ら「吾輩善蔵君」と名乗る場面が登場していることである。具体的に一文全体を引用すると、「彼等の言ひ分は重々尤もではあると思ふが、また我輩善蔵君としても、震災以来のナンについてはやはり遺憾に思つてゐるんだ。」(同九二頁)という箇所がそれである。
 葛西の後期作品においては、身辺小説の殆どは一人称によって書かれており、「K」というイニシャルが示されることは多々あるものの、主人公の固有名が示されることは皆無であった。ところが、「椎の若葉」においてだけは、主人公の名前が「善蔵」であることが具体的に示されているのである。主人公と作家自身とが同一であるという意識、あるいは読者に同一のものとして理解して欲しいという意識によって葛西が作品を造型していたことを、端的に示す箇所となっていると言えよう。
 この作品では冒頭と末尾に椎の若葉を見ての主人公の独白が配置されている。自然への讃美の背後に葛西の宗教的な希求を読みとる塚越和夫氏の論(注10)や、自然に母性愛を感じる葛西の姿を読む大森澄雄氏の論(注11)などに見られるように、葛西の感慨と自然描写とが渾然と溶け合った一節として称賛されてきた箇所であるが、葛西の戦略としての作品造型という観点から捉える場合にも、この一節は極めて重要な効果を持っていると言えよう。
 この作品では、主人公である語り手は「僕」「私」「吾輩」など様々な一人称を用いており、また文末表現も「だ」「である」「です」が入り交じり、「大変なんでしたよ。」「会ひたいと思つたんだ。」のように変化をつけるなど独特の語り口調となっている。大正一三年七月九日の「時事新報」に掲載された田中純の「月評その日その日(三)」と、同年八月の「早稲田文学」(第二二二号)「合評会」とにおいて、表現が「ごたくしてゐる」との指摘がなされている所以である。
 作品の中心に据えられているのは、主人公がおせいの実家のある鎌倉を訪ねて行き、心ならずも暴行事件を起こしてしまうという出来事であるはずなのだが、話は絶えず脱線し、また肝心の事件の詳細は省略され曖昧化されている。出来事は整然と語られるというよりは、行きつ戻りつ逡巡し、感傷や言い訳を含みつつ展開されるのであり、初期において葛西の特色として指摘されていたリアリズムの手法とはかけ離れたものとなっている。読者がこの作品に共感するとすれば、それは一人称の揺れ動く語りに垣間見られる主人公の感情の揺れを追体験することによって、主人公、ひいては作者葛西善蔵に「懐しみ」を感じ、「気分の交流」をなした実感を味わうところから引き出されたものと言えるだろう。そして、こうした〈読み〉は、葛西が同時代の文壇的読者を念頭におきつつ戦略的に選択した作品造型の手法によって方向づけられていたものなのである。
 椎の若葉を見ての主人公の独白は、冒頭と末尾に配置されることによって、この蕪雑な印象の本文を一つの短編小説として構成するための枠としての機能を果たしている。また同時に、主人公の感慨をその一点に凝縮させて示すことで、読者の共感しやすいポイントを設定することにも成功しているのである。
 大正一三年八月の「新潮」(第四一巻第二号)「新潮合評会」では、「椎の若葉」が四頁以上にも渡って論じられている。文章の蕪雑さの指摘、自然描写についての称賛のほかに、次のような議論がなされているのが注目される。
「読者はその作物を読むにあたつて、どれほど、作者の実生活を考へに入れて読むべきものかが、私は問題だと思ふ。つまりこの作品にしても、葛西氏の生活を知つてゐれば面白いので、知らない読者にはそれがどうかと思ひます。」(千葉亀雄)
「文壇の人は皆な知つてゐるだらうけれど、一般の読者は或は知らないかもしれないね。併し葛西君は最近の事件を誰もが知つてゐるものとして書いて居るね。」(加能作次郎)
 前掲の田中純の批評にも、次のような指摘がある。
彼の非常に忠実な諸君にだつて、葛西君の日常生活や、さてまた例のおせいさんなるものを実際に知らないものには、恐らく、解らないだらう。(中略)葛西氏のこの説明不足もまた考へものだ。が、ともあれ、割りに近くから葛西氏の生活を知つてゝ、彼の生活と併せて彼の作品を読むものには彼の存立そのものが、まことに愉快な、興味深いものであることは否まれない。
 題材の内容に関する説明が余りに不足しているという指摘、そして、葛西自身の生活を直接によく知っているかどうかによって作品の面白味の感得に違いが生じるのではないかとの指摘である。
 先ほどから繰り返し論じているように、葛西は意識的に作品をシリーズ化し、また作品中に主人公を作者本人と同一視させる仕掛けを組み込んでいたのである。それは、葛西善蔵本人の実生活やそのイメージを参照枠として自らの作品を読者に読解させるという手法であり、現実と作品世界との差異を意図的に曖昧化することによって、作品を現実世界と地続きの、開かれた身近なものと感じさせる試みであった。一方では、生活そのものを芸術と一体化させる試みであったとも言えるだろう。
 こうした題材となる事件についての説明不足という現象もまた、その不足を補う意味で現実の葛西善蔵についての参照枠をより一層強化しようとする読者の欲望を喚起する役割を果たしているのであり、少数の、しかし密度の濃い葛西の信奉者を読者として想定しながら、その読者とのより深い共犯関係を形成する狙いとして理解することができるのである。

       三

 大正八・九年に隆盛を誇ったモデル小説、文壇交友録小説は、大正九年後半から大正一〇年にかけて、強烈な批判にさらされることになる。生田春月は大正一〇年三月に「八作家に対する批判と要求(其二)葛西善蔵氏 もつと視野を広めよ」(「新潮」第三四巻第三号)において、「葛西氏は楽屋落小説、友達小説で売出した作家である。そして楽屋落小説、友達小説に対する非難が猛然として起つた時、その波を頭からかぶつた一人である。」と指摘し、「葛西氏も、もつとこの視野をひろめられる事が今最も必要な事のやうに、私は思ふ」との批判を示している。葛西が「暗い部屋にて」において〈おせいもの〉による新たな傾向に着手したのは大正九年一〇・一一月のことであり、その変化が生田の要求する「視野をひろめ」ることにつながったかどうかはひとまず措くとしても、この時期のモデル小説批判の波に対処するかのように新機軸を目指していたことは事実である。
 私小説という用語が初めて用いられたのは大正九年九月であるとされているが、葛西善蔵を私小説の作家として語る傾向が定着してくるのは大正一〇年のことであった。当時は「私小説」は単に一人称小説の意味で用いられていたという点に留意が必要だが、例えば田中純は大正一〇年七月九日の「時事新報」「七月の創作評(四)」において、「葛西君はやつぱり「私」小説の作家である。この小説(引用者注・「埋葬そのほか」)の中で、最初の部分は純然たる「彼」小説であり、「遺失」の項は半「私」小説だが、矢張りそれらの部分よりもそれ以下の部分、殊に「獲物」の項などが際立つて巧い。」と書いているのが見られる。
 モデル小説問題で酷評を受けた大正九年後半から転じて、私小説の語によって概括されはじめた大正十年には、葛西の作品に対する評価は比較的肯定的なものが多くなってきている。その際の称賛の根拠は「自分自身の生地に帰らうと努めてゐる」(大正一〇年一〇月一日「読売新聞」「最近小説界の傾向」中村星湖)こと、「作者の鮮やかな実感が蔵されてある」(大正一〇年一一月「新潮」第三五巻第五号、「読んだ物見た物 作品と実感」谷崎精二)ことである。作品からモデル的興味を排し、一人称による身辺小説に立ち返ったことで、葛西の私小説が作者本人の実感の表出として受け入れられはじめたことがわかる。
 そして、葛西善蔵の評価が再び圧倒的に高まるのは大正一一年以降である。石浜金作は大正一一年一〇月に発表された「葛西善蔵研究」(「新潮」第三七巻第四号)において、葛西の芸術の傾向を「風格の芸術」と名づけ、「此種の作品に向ふ観賞の中心興味は、其作品全体に漂ふてゐる情感」であり、「作品を通じて感ぜられる氏の心境」を重視すると論じている。そして、「漂ふてゐる作の気稟とも云ふべきものが、なんとなく幽遼な静さと落付きとか云ふものを示してきた」とまで絶賛するのである。
 これ以降、プロレタリア系の批評家の一部から若干の批判が見られるほか、作品の読解が作家個人の実生活の知識に左右されてしまっているという観点での議論がある。また葛西の作品が随筆あるいは身辺雑記の雑文であって本式の小説ではないとする批判なども一部では見られる。しかし、作者葛西の心境の清澄さや作品に漂う風格を称賛する傾向は衰えることなく、むしろ批判が出るたびに強調されていったのである。こうした傾向が、大正一三年末以降の心境小説論議に引き継がれ、有名な宇野浩二による葛西の絶賛を引き出したことは言うまでもない。
 こうした、葛西善蔵の作品が心境や風格という用語によって称賛される傾向というのは、葛西が〈おせいもの〉のシリーズに着手し、徐々に登場人物のモデル的興味から作者本人の心情の表現へと作品の焦点を移していったのと、ほぼ同じ時期に出てきている。葛西は主人公と作者本人とを同一視させる仕掛けを通して、読者が作者との「気分の交流」を感得し得るような作品造型を意図して作品を変えていったのであり、葛西の心境小説はこうして作り出されたのである。
 心境小説論議がおこるのは大正一三年後半以降であるが、「椎の若葉」に見られるように、ほぼこの時期までに葛西の後期作品の特徴は出揃っており、葛西による心境小説の試みは完成しつつあったと言えるだろう。葛西と葛西を敬愛する読者との共犯関係が、最も強固に結ばれていた時期であったとも言える。
 葛西善蔵は大正期の文壇というシステムの中で、その流れにある時は飲み込まれつつ、また自らの創作によって新たな流れを生み出していくような運動を示し、独自の確固とした位置を築いた。伊藤整は私小説の成立の問題に関して、文壇のギルド性ということを指摘した(注12)が、葛西はその文壇を相手取り、その特有のあり方を最大限に自己の創作上の戦略に活かすことで、自らの芸術を成り立たしめた作家であったのである。文壇の閉鎖性を逆手に取ることで、文壇的読者との間に密接な「気分の交流」を現出せしめたのだと言ってよい。
 葛西の作品が同時代の文壇システムを基盤とし、同時代の読者を強く意識することで書かれ発表されたものであるだけに、現代を生きる我々が葛西善蔵の作品とどのように対峙し、どう読み替えていくのかという問題が、課題として残るだろう。本稿では、葛西の作品造型の戦略の変遷を同時代の文脈において捉えかえすことを意図した。作品成立時の問題系を捉え、提示することが、現代の読者の葛西作品への読みに寄与することにつながればと願う。
 

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(注1)本稿では、葛西善蔵が自身の生活や交友関係などをもとにして書いたと考えられる作品群(以下本稿では身辺小説と呼ぶ)の分析を中心としており、「雪をんな」などの幻想的な作品や、「馬糞石」などの村や農民の生活を題材とした作品については議論の対象にしていない。本稿末尾に葛西作品における主人公の人称を示す表を付したが、大森澄雄氏『葛西善蔵の研究』の指摘などを参照し、明らかに身辺小説でないと考えられる作品については網掛けを施した。
 本稿の意図は作中の出来事を葛西本人の伝記的事実に照らして分析することにはないため、作品と実生活との厳密な対応関係は問題にしていない。身辺小説か否かの分類は、葛西の生活や当時の交友関係と作中の人物設定に類似性やある程度の照応が見られるかどうかの判断によっている。恣意的であるとの批判は免れ得ないかもしれないが、作家自身にまつわる情報をもとに作品を読解するという同時代の 〈読み〉 のコードを理解し、葛西の作品構成上の変遷を大きな流れとして捉えるためには必要な作業であると考えている。  (もとのところへ)

(注2)中村友「大正期私小説にまつわる覚書〔一〕」(「学苑」一九七七・一)、宗像和重「大正九(一九二〇)年の『私小説』論──その発端をめぐって──」(「早稲田大学教育学部学術研究 国語・国文学編」一九八三・三)に詳しい。  (もとのところへ)

(注3)このうち『不能者』のモデルとなった萬造寺斉は、のち大正一四年七・八月の『明星』(第七巻第一号)において「私と葛西善蔵君」という文章を発表し、『不能者』の題材となった出来事の真相を語るとともに、作品のモデルに対する葛西の姿勢について執拗な抗議を示している。  (もとのところへ)

(注4)例えば、大正八年一一月の「新潮」(第三一巻第五号)の「文壇風聞記」欄には、「人の悪い葛西善蔵氏は『遊動円木』に広津和郎氏夫妻をモデルにして怒らせ、『風聞』には富田砕花氏を書いて怒らせたさうだ。」との言及がある。また、大正九年二月の「文章世界」(第一五巻第二号)の「雑記帳」欄にも、「内幕小説の流行」という章題で「遁走」にまつわる話題が示されている。  (もとのところへ)

(注5)『葛西善蔵の研究』(桜楓社、一九七〇)を参照のこと。  (もとのところへ)

(注6)葛西の身辺小説における一人称の表記は、のち大正一二年一一月の「迷信」以降には更に「私」から「自分」へと切り替わることになる。  (もとのところへ)

(注7)例えば、大正七年十月の「新潮」(第二九巻第四号)「不同調」欄に、次のような議論が掲載されている。
「この頃、文壇には一つの悪い流行がある。それは何かと言ふと、小説で自分の憎んでゐるものをさんぐに悪く書くといふ傾向である。評論や随筆でならばかまはぬが、小説で他人を攻撃するのは一寸よろしくない、もし咎められた時には、あれは小説だからと逃げることが出来る。卑怯な話である。小説を書く以上は、それは随分他人の弱点にも触れることもあらう、モデル問題で絶交騒ぎ位ゐ起つたとて止むを得ないわけだ。(中略)此の頃それについて問題を惹起した二三の作が、さうした恥づべき傾向を有じてゐると口さがない京童の口の端に上つてゐるのは事実である。」  (もとのところへ)

(注8)宗像和重「大正九(一九二〇)年の『私小説』論──その発端をめぐって──」(「早稲田大学教育学部学術研究 国語・国文学編」一九八三・三)より引用。  (もとのところへ)

(注9)本稿の意図とは直接関連しないため詳細に論じることができないが、「椎の若葉」における初出(大正一三年七月、「改造」第五巻第七号)と初収(大正一三年一一月、『椎の若葉』新潮社)以降のテキストとの異同について言及しておきたい。初出では作品タイトルが「椎樹の若葉」であったものが初収以降変更になるなど、表記上で多くの訂正が行われている。「光」を「光り」、「御」を「お」に改めるなど表記の訂正の例、誤字の訂正の例などが見られるが、初出では筆記者古木による表記がそのまま掲載されていたものを、単行本への収録に当たって葛西が自身の表記法に改めたものと考えられ、葛西の文字表記へのこだわりがうかがわれる。その他では「十二時」を「十一時」に改めるなど時間や年数に調節があるほか、おせいが鎌倉から主人公の下宿に逃げてくる経緯に関する補足説明が二例つけ加えられているのが見られる。  (もとのところへ)

(注10)『葛西善蔵と芥川龍之介』(葦真文社、一九八七)所収、「『妻の手紙』から『椎の若葉』まで」。  (もとのところへ)

(注11)注4と同じ。  (もとのところへ)

(注12)『伊藤整全集第十六巻』(新潮社)所収、「小説の方法」など。  (もとのところへ)
 
 

〈表:葛西善蔵作品一覧(語りにおける主人公の人称を併記)〉       (文頭へ)
 

大正元年 九月 「哀しき父」=彼 
       一二月 「悪魔」=彼(良吉)
大正二年 二月 「池の女」=男
         四月 「メケ鳥」=彼
大正六年 二月 「贋物さげて」=彼(耕吉)
         四月 「奇病患者」=彼(S)
         五月 「姉」=彼(久一)
         七月 「雪をんな」=私
            一二月 「発作」=彼
大正七年 三月 「子をつれて」=彼(小田)
         五月 「兄と弟」=庄作
         九月 「呪はれた手」=彼
       一一月 「遁走」=私(馬越)
大正八年 一月 「泥沼」=私(山田)
         四月 「火傷」=彼
         四月 「急行券」=私
         五月 「青い顔」=彼(山崎)
         七月 「馬糞石」=三造
         八月 「不能者」=参吉
         十月 「風聞」=私
         十月 「遊動円木」=私
         十月 「無心に」=私
       一一月 「愚作家と喇叭」=卯吉
大正九年 四月 「千人風呂」=彼
         四月 「家鴨のやうに」=私
         五月 「春」=私
          六月 「小さな犠牲者」=私(谷岡)
               六月 「悪夢」=一郎
          七月 「出奔」=私(美郎)
         九月 「M氏の失策」=私
       十・一一月 「暗い部屋にて」=私(K)※
       一一月 「仲裁人」(戯曲)
大正十年 一月 「村長の手記から」=彼
         一月 「不能者前後」=文吉
         二月 「寂しき人々」=私
         三月 「村の委員」(戯曲)
         五月 「浮浪」=私(K)
         五月 「冷笑」=樫村
         七月 「埋葬そのほか」=私
         七月 「姉を訪ねて」=私
         八月 「十六房」=香野勝三
大正十年   九月 「仲間」=私
        一一月 「雨」=私
        一二月 「客」=私・自分
大正一一年一月 「本来の面目」=私
          二月 「父の出郷」=私
          二月 「朝詣り」=私
           六・八月 「不良児」=私※
          七月 「疵」=私
        一二月 「おせい」=私(K)※
大正一二年一月 「歳晩」=私
          二月 「父の葬式」=私
          二月 「踊った男」=私
          三月 「日なた」=私
          四月 「ある夜」=私※
                四月 「追憶」=彼
          四月  「非凡人」=私・自分
          六月 「病友」=私
          八月 「M君との話」=私、僕
        一一月 「迷信」=自分
大正一三年三月 「遺産」=自分
          四月 「蠢く者」=自分、私※
          五月 「妻の手紙」=自分※
          六月 「落葉のやうに」=自分※
          七月 「椎樹の若葉」=善蔵君※
          八月 「従弟」=自分
        一一月 「湖畔手記」=自分※
大正一四年一月 「血を吐く」=自分※
          二月 「バカスカシ」=自分
          三月 「霜枯れ作家の話」=自分
          四月 「死児を産む」=自分※
          六月 「雪をんな(二)」=私(S)
          七月 「温泉村にて」=北村完治
          七月 「彼等の日曜日」=諸井義人
          八月 「弱者」=自分※
大正一五年一月 「われと遊ぶ子」=自分※
          二月 「もぐる」=自分※
          二月 「海岸にて」=自分
          二月 「W老伯」=自分
          八月 「父親」=自分・僕
昭和二年  一月 「酔狂者の独白」=自分※
          四月  「忌明」=自分

 

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