六 初期芥川文学の特色

 初期の芥川文学が鮮烈で力強いものであったのは、芥川が反自然主義という位置において自らの文学を創造していたことによるところが大きい。撃つべき権威が予め存在し、それに飽き足りないものを感じ、なお且つそれを乗り越えられるだけの力量が自分にあると感じている青年特有の前向きさが、文壇登場期の芥川の作品にはある。〈近代文学〉の新時代を自分が造っていくのだという信念から、その力強さが生まれている。
 芥川は古典文学の享受形態や言語感覚に強い関心を持っており、そうした古典の要素を積極的に取り入れることによって〈近代文学〉の可能性を追求しようとしていた。自然主義が描写を提唱することで日本の〈近代文学〉に一つの流れを形成しているのを青年期に目の当たりにしつつ、それとは別方向に進路を見出そうとしたのである。語りの客観性を重視し、語る/聴くという物語の〈場〉を抑圧していく趨勢に抵抗して、作品の中に装置として語りの〈場〉を明示していく手法がその一つであり、また、自然主義の描写信仰が排除した、言葉の持つマテリアルな側面を重視し、文字の形象やイメージにまでこだわった表現を追求したのもそうであった。そして、それが単に既成の手法へのアンチテーゼを意図したということでなく、芥川自身の文学観、芸術観に根差した方法であったところに、芥川の文学的な宿命が潜んでいたのである。
 四章までに芥川文学の持つ様々な特色について考察を行ってきたが、そのなかでも最も顕著な、そして重大な特徴は、その言語感覚、語彙や文体に関する表現意識にあったように思われる。
 芥川は形式と内容という問題について初期から晩年に至るまで繰り返し論じていくことになるが、芥川の発想において一貫していたのは、その両者が不即不離なものであるということであった。内容=題材、形式=文章といった理解が当時の文壇では主流であったのであり、「芸術は表現に始つて表現に終る」(大8・11「芸術その他」、『芥川龍之介全集第五巻』)ということを信条とした芥川は、そうした浅薄な理解を覆すために多言を費やさなくてはならなかったのである。
 こうした文学者間の発想の対立の背景には、言語感覚における断絶が存在していたものと考えることができる。即ち、観察と描写を小説の主眼とし、現実を再現する道具として文学の言葉を捉えている人々が一方にあり、また他方に、言葉自体の形象や美しさを重視し、言葉の配列そのものに芸術を見ている人々がいたということである。芥川は当然後者であるが、同時代において芥川とそうした意識を共有する人々は非常に少なかった。内容と形式論、表現論に関して絶えず芥川とともに闘っていた文学者として里見クが存在したほかは、谷崎潤一郎や泉鏡花といった作家がいたのみであったのである。大正中期に文壇の中軸をなしていたのは、「白樺」「新思潮」「奇蹟」出身の作家たちが主であったが、芥川、谷崎、里見を除けばそれらの雑誌出身者もすべて言語観においては自然主義の影響や恩恵をそのままに授かった人々であったとみてよい。大正中期には文壇交遊小説、モデル小説が全文壇的な拡がりにおいて隆盛を見、その傾向がのちの私小説・心境小説の登場を促すことになるが、こうした傾向の作品が幅広い作者を持ち得たことも、文学の文章を現実の再現・描写に見る作者が圧倒的多数であったことと関連していると考えられるのである(注32)
 芥川にとっては、どのような題材による作品であっても、文学は現実の再現ではありえなかった。芥川の考えでは、文学において言葉は道具ではなく目的そのものである。描くべき現実や事実が予め存在し、それを再現するのが文芸であるとするのが自然主義系統の文学者の発想であるとすれば、芥川にとっては、表現されたものが描かれるべきすべてであった。予め存在するのは混沌とした思念にすぎず、それらは表現を与えられてはじめて実在を得るのである。文芸においては表現が即ち芸術であり美なのであって、作家は表現を磨き作品の完成を期さねばならない──これが芥川の論理であった。
 こうした表現意識は思索の果てに生み出されたというよりは、芥川が幼少期以来の読書体験から自明のものとしていた発想であったと考えられる。芥川は表現論、そして形式と内容論を繰り返し論じているものの、その真意を明確に論述し得たとは言い難い。またその議論が同時代的に正当に理解されていたとも言い得ない。それは単に芸術至上主義的文学論と受けとめられ、理解のない批判と反論にさらされ続けたのであった。
 そのことは、伊福部隆輝による「芥川龍之介論」(大11・9、「新潮」第37巻第3号)などを想起することで理解されよう。伊福部は、「芸術その他」における芥川の言葉を引きながら、次のように論じている。

『幽霊』の作者は、オスワルドに「太陽が欲しい」と言はせる以前に、明らかに、この言葉がもつてゐる内容のもとをもつてゐた。そのもとが、この言葉を生んだのである。(中略)このもとの、まだ明らかな形を供へぬ内容をもつてゐずして、『幽霊』の作者はこの言葉を生んだのではない。この意味に於て、明らかに内容がもとであつて形式は末である──といふことが言ひ得る。/しかも芥川氏はこの間の消息を見落してゐるのである。/氏はたゞ、さういふ内容をもつてゐる言葉が、形式が、存在するやうに考へてゐるのである。換言すれば言葉の組み合はせによつて如何なる内容をもつくることが出来るやうに考へてゐるのである。〔傍点原文〕
 伊福部の説の欠点は、「内容のもと」と「内容」とを混同しているところにある。芥川は伊福部の言う「内容のもと」の存在を認めることにやぶさかではなかっただろう。しかし、それを「内容」と呼びうるのは、的確な「形式」が与えられ、「表現」の形をとったときのみである。芥川が形式と内容が不即不離であることを強調するのはこういう意味においてである。言葉の持つ形象性やイメージにまで配慮して文章を作る芥川にとっては、「内容」は的確な語彙と文体によって表されてはじめて「表現」となるとの意識が強かったのである。ただし、芥川はこの伊福部の批判に答えた「一批評家に答ふ」において自説を再度述べているものの、伊福部の理解を促すような懇切さは見られない。芥川の説が同時代において特異な芸術至上主義的発想と見なされたのは、芥川自身の説明不足、あるいは言語観の断絶に対する認識の不足によるところも大きかったように思われる。
 芥川はこうした言語観と表現意識とを持ち、且つ個々の作品における構成や文体に腐心することによって、独自の文学世界を展開していった。芥川が題材を幅広く古典や外国文学に求めていたことも論じてきた通りである。自然主義が手法や題材を狭めることで文学の普遍化を図ったのに対し、芥川は表現の美という一点に芸術性を賭けることによって、雑多な手法や題材を取り込むという方向を目指した。芥川は「文芸的な、余りに文芸的な」(昭2・4)において自らを指して「雑駁な作家」であると位置づけたが、初期の芥川にとってはこの「雑駁」さこそが作家としての誇りや自負に直結していたと言うことができるだろう。自らの芸術の意義と価値を確信し、〈近代文学〉の実質を造っていくことに寄与しうることを喜びとすることが、初期の芥川文学を支えていたのである。
 しかし、一躍文壇の流行児となり、芥川ら第四次「新思潮」出身の作家が文壇の中軸と見なされるようになると、新進作家時代とは異なる重圧が芥川を襲うことになる。反自然主義を標榜し、〈近代文学〉の革新を唱えるという立場であったものが、今度は芥川自身が既成作家の中心人物となり、批判にさらされる位置に立たされることになったのである。
 大正九年一月の「文章倶楽部」(第5年第1号)に掲載された「文壇鳥瞰図」という特集には、「現今はといふと、人気作家は、赤門の方に多い。大体から見て、赤門全盛時代と言へるかも知れない。/芥川龍之介、久米正雄、菊池寛──これ等の人々は、二三年来引続いて文壇一流の流行児である」との記述が見られる。ここでは赤門派、早稲田派など出身大学や出身の同人誌を基準とした分類の冒頭で赤門派が扱われているのであり、しかもその中で最初に登場する作家名が芥川龍之介なのである。こうした扱いが大正八年末には既に成立していたということであり、芥川は文壇登場から僅か数年のうちに文壇の中心的人物とされるに至っていたと言えよう。作風においては傍流と位置づけられつつも、流行作家の一人として文壇の中軸と目されることになったのである。
 こうした芥川の文壇的地位が固まった大正八年頃は、文学と社会、文学と政治といった問題が浮上してくる年でもあった。ロシア革命の影響が日本の文壇でも顕在化し、加藤一夫らの唱える民衆芸術論を経て労働文学が成熟を示してきたのである(注33)。大正八年七月の「新潮」(第31巻第1号)では「社会批評家の現下文壇に対する批判と要求」という特集が組まれ、山川均、茅原華山、山川菊江らが「ブルジョアジーの文芸」として現下文壇の作品を批判しているのが見られる(注34)。プロレタリア文学の勃興につながる傾向が噴出してきたのが大正八年のことであったのである。
 こうした問題が取り沙汰される中で、芥川に対する批判の声がますます高まっていくことになる。というのは、労働文学の進出を受けて文壇内でも社会と密着した文学を求める声が再び強くなり、歴史や空想に基づく題材の作品を書く作家が批判される風潮が高まったのである。流行作家として文壇の中心人物と見なされていた芥川は、その際必ず引き合いに出されることになった。大正中期にモデル小説が隆盛を迎えたことを先にも指摘したが、文学者が自らの社会生活を意識するところからこうした傾向が生まれたことは言うまでもないだろう。
 芥川が大正八年に最初の大きな転換期を迎えたのは、こうした風潮の中で自らの文学と芸術観とを再確認する必要を感じていたからにほかならない。そして、その変化が現代小説の執筆や自らの身辺を題材に採る傾向の登場という形で表れたのは、社会情勢や文壇の議論の趨勢から社会意識の問題をつきつけられたためと言えるだろう。
 〈近代文学〉が未だ過渡期にあると考えていた芥川は、そこに新たな風を吹き込むことを意図して颯爽と大正期の文壇に登場したのであった。しかし、目まぐるしく動く大正時代の社会状況は、〈近代文学〉の成熟を待つだけの猶予を与えなかった。大正期には社会の動向に即応した文学のあり方が要求されていたのであり、芥川はその中で自らの作風を維持することの困難に直面せざるを得なかったと言える。文学の表現において観察と描写を旨とする文学者たちは、こうした時代状況に対応することが比較的容易であったろう。しかし、言葉のマテリアルな側面を重視し、表現そのものに美を見出すような言語感覚を持つ文学者にとっては、自らの芸術観や作風を守っていくためには大変な試練を経なければならないという、困難な時代であったのである。 大正八年の芥川は、作風を変節させるのでなく、幅を広げるという形での転換を試みた。自己の文学観を否定せず、それを貫くための方途としてその選択が行われたと言うことができよう。しかし、大正十二年の転機においては、もっと本質的な転換が起こっていたように思われる。その際に何が否定され、何が貫き通されたのかということを、詳細に検討していかなくてはならない。第二部において、芥川の晩年の問題系を捉えていくことにしよう。
 

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(注32)モデル小説・文壇交友小説が流行したのは主に大正七年から九年頃にかけてのことである。相馬泰三、葛西善蔵、広津和郎ら「奇蹟」出身の作家や、菊池寛、久米正雄ら第四次「新思潮」出身の作家が相次いで文壇の交友関係を下敷きにした作品を発表し、やがて三田出身の作家たちにも同様の作品が見られるようになる。大正十年には生田春月や江口渙らによって「楽屋落小説」「実生活の紙屑」などと批判されることになるが、やがて葛西善蔵などモデル小説の作家の作品が「心境」「風格」という語によって肯定的に評価される機運が生まれ、そこから心境小説論が浮上するに至ったと考えることができる。  (もとのところへ)

(注33)「中央公論」が大正八年八月に「労働問題号」を出し、創作欄にも労働問題を扱った作品を並べるなどしたことなどに、労働文学の注目の高さを見ることができるだろう。  (もとのところへ)

(注34)山川均は「『俗悪な生活』に捧らるゝ芸術」という文章において、「小生は今日我邦の文芸を支配して居る思想も、大体に於いて、現在の経済組織に於ける支配者たるブルジョアジーの哲学であり、ブルジョアジーの人生観であり、ブルジョアジーの思想であり、ブルジョアジーの思想方法であると信じます。(中略)文芸の為の文芸が、或る何物かのこの社会生活の改造の為の文芸とならざるを得ない切迫した時機が、日本にも近く到来することを小生は信じて疑ひませぬ。」と書いている。
 また山川菊栄は「無産階級の文学が起つた暁」という文章の中で、「今日迄の所では、日本の文壇は、謂はゞ純然たるブルジョアの文壇です。(中略)私はブルジョアの一切のものを否定します、その思想もその文学もその哲学も、全て一切のものを。」と強い口調でブルジョア文壇批判を展開している。  (もとのところへ)
 

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