命のふち

■1998/12/13 (日) 戦闘・死

「タヤラ(敵機だ)!」

誰かが叫ぶと同時に、空が割れたかというような音が覆い被さってきた。岩の上にいた戦士たちは一斉に近くの窪みや塹壕の底にはりついた。私も隠れる場所を探す。上空を見上げる余裕もない。一番近い塹壕は3人の戦士で満員だった。10メートル先の別の塹壕へ飛び込むより早く、そこいら中の銃という銃が空に向かって火を吹き始めていた。機影を捉えようとファインダー越しに空を見上げると、私に背をつけた戦士の発射するカラシニコフの薬莢がカラー液晶の中を舞っているのが見えた。どれが何の音だか分からない。耳はすでにおかしくなっていた。かわりに横隔膜で炸裂音を感じていた。100メートル後方に灰色の巨大な山がゆっくりと立ち上がっていた。

タリバンのジェット戦闘機の落とした爆弾が荒れ地に直径15メートルのクレーターを作ったところだった。

私は内戦の続くアフガニスタン北部、タハール州とクンドゥズ州の境にある村にいた。ここは当時最も戦闘の激しかった最前線で、私は内戦の一方の当事者マスード派の作戦に従軍していた。

最初の戦闘は私が到着してものの1時間で始まった。タリバンのジェット戦闘機の襲来と迎撃だ。ジェット戦闘機は必ず2機以上で作戦をとると聞いていた。しかし、1機しか見えない。爆弾2発または3発を投下しては、Uターンして行く。それがおよそ2時間の間に、3度続いた。私はその度に泥まみれになりながら戦士たちと一緒に畑の畦に飛び込み、着弾地点ができるだけ遠いことだけを祈った。いつのまにか腹に力を入れ、歯を食いしばっていた。

死を恐れるということを初めて知った。今まで死が恐いと思っていたのは思い込みに過ぎなかった。多分この日の恐怖こそが私の人生最初の本当の死の恐怖だったのだ。体の中で突っ張っている梁みたいに思えた。

マスード派は数千メートルの上空から襲ってくるジェット機に向かって、カラシニコフ自動小銃を撃っていた。弾が届くはずもない。アフガニスタンの空は全てタリバンに支配されていた。

畑の畦に転がったまま、ファインダーの中から小さくなる機影を追い続けていると、一緒にいた戦士カセムの声がした。
「シャヒード(殉教者)だ」

一本道の向こう、崩れて消えつつあるキノコ曇の下からロバを連れた男たちが歩いて来る。ロバの背には細長い包みが積まれていた。いや、包みではなかった。布にくるんだ人だ。にょっきりと、赤黒いはだしの足が覗いている。その足と布の間から、血が滴り続けていた。布の上からでも、中身が生前の原形をとどめていないことが分かる。それでも、私は聞いてみた。

「けが人か?」

「いや、死んでしまったよ」

ロバを曳きながらウズベクの服を着た戦士が答えた。

私のダリー語はかなりあやしく、こみいった質問ができない。遺体をどこへ安置するのか聞こうと思ったが、うまく言えない。

「あなたはどこへ行くのか?彼はどこへ行くのか?」

「フィルダウス」

戦士は一言だけ答えた。『天国』というダリー語だった。

■1998/12/16 (水) 前夜

夕方、ダウド司令官がいった。

「明朝8時に攻撃を行う。ハーナバードをとる。シェル=ハンは来るか?」

当然、希望した。

ハーナバードはタハール州に隣接したクンドゥズ州の要衝で、ここを落とせば州都クンドゥズを完全に包囲できる。クンドゥズが手に入ればマザリシャリフは喉元に匕首を突き付けられたも同然だ。マスード派は去年マザリシャリフがタリバンの手に落ちたとき以来の危機的状況を回復できる。

■1998/12/17 (木) 命のふち

戦闘が始まった。

戦士たちは初め、笑っていた。最前線に立った戦士たちを撮影しようとしたのに、皆がにやついているから、さっぱり絵にならない。向かいの崖にBM12砲の土煙が上がっても、そう真剣には見えなかった。しかし、急に変わった。

今まで聞いたことのない、鈍い砲声が聞こえた。

「プルート!タンク!タンク!(伏せろ!戦車だ!戦車だ!)」

戦士たちは塹壕の中に身を隠す。しかし、戦車らしい姿は見えない。数キロ向こうの山の死角から撃ってきているらしい。私にはどの音が戦車砲で、どれが迫撃砲だか分からない。

戦闘ヘリコプターも襲ってきた。羽音だけが聞こえる。戦士たちは塹壕の底にへばりつく。音が聞こえなくなるまで3分間ぐらいだったろうか。随分長かったようにも思えて、良く分からない。

「ハーナバードを攻撃する」と、昨日聞いた。しかし、今攻撃を受けているのは私たちだ。敵が準備していた戦力の方が遥かに大きかったのだ。

私の目にはタリバンの姿も、彼らの乗り物の姿も見えない。しかし、戦士たちは塹壕を出るとそれぞれ、ジリノフだの、カラコフだの、RPGロケット砲だので、ハーナバードの方角を狙い撃ちしていた。

一方、敵の砲は谷を挟んだ反対側の崖や、数キロ離れた川向こうの山の斜面に着弾するのだった。

私は砲弾が飛来するときの「ひゅう」という音がする度に、体を強張らせて塹壕や丘の陰に身を隠した。飛来音は耳のすぐ側に聞こえる。実際にはどれくらいの距離を通り過ぎているのだろう。ただ、この時間が早く過ぎ去ることだけを願っていた。砲の着弾は次第に私のいた塹壕に近づいてきていた。

衝撃とともに、目の前が真っ白になった。味方がRPGロケットを発射したのだと思った。そうではなく、数メートルの距離に敵の砲弾が着弾したのだ。煙で何も見えない。体はどこも何ともない。煙の晴れ間から、他の戦士たちが全力疾走しているのが見えた。

退却している。

私は後を追う前にカメラの録画を始動させた。その分、遅れを取った。塹壕のある崖の上から軍用車両の待つ道路へ滑り降りて行く。戦士たちが蟻のように群がって車両に這い上がって行くのが見える。背中で着弾音が聞こえる。

車両のうち自走砲は既に走り出した。残った最後のトラックも荷台に戦士を満載して少しずつ動き出している。

荷台の縁に手を掛けたとき、既にかなりのスピードがあった。体のバランスが崩れて、つかまった指に体重をあずけられない。駄目だ。這い上がれない。滑り落ちる。そう思ったとき、ふたつの腕が私の両手首を恐ろしい力で掴み、撮影機材を入れて70キロにはなっていた体重を一瞬のうちにゼロにした。

次の瞬間、私は天地逆になって、トラックの荷台で満員の戦士たちの間に挟まり込んでいた。もがきながら身を起こしてようやく、私の体を引き上げた恩人の顔を見ることができた。ハンサムな映画のヒーローではなく、ひげ面の見知らぬ男がいた。表情はなかった。

トラックの中に誰かの血がべったりとついていた。

戦場があれほど大きな音に満ち満ちた空間だということを私は知らなかった。カラシニコフ自動小銃の銃声は一発で私を一時的な難聴にして、しばらくは耳鳴りが止まない。それが何百発も続けさまにそこいら中に繰り返される。カラシニコフは一番音の小さな部類で、他に迫撃砲やRPGロケット砲、BM12式砲、ダシャーカ砲、それにジェット戦闘機から落とされる爆弾の炸裂音と、どれがどれやら分からなくなる。

少年時代から、戦争は世界最大の謎だった。しかし、当時私のイメージの中にあった戦争とは、両親の子供時代の体験から移植されたものだった。空腹であったり、不便な生活に耐えたり、自由を失ったりすることだった。個人の人生をゆっくりといつのまにか変えて行く目に見えない力だった。

しかし、自分の目で見て体験した戦争はそういうものではなかった。あのとき、最後の砲弾があと数メートル私の近くに落ちていたら、破片は私の体を裂いていただろう。戦士の手が汗で少し湿っていたら、私は脱出のトラックに乗れなかっただろう。あの日の戦闘で、マスード派は10人の戦死者を出した。あの瞬間に、私がその中に入っていても不思議はなかった。

戦争とは、戦闘であった。人間の体を引き裂く物理的・直接的な暴力だった。血のぬめり、生臭い肉と脂の匂い、難聴を惹き起こす轟音。そういったものの集まりだった。背後から忍び寄る不安ではなく、真っ正面から襲い掛かる恐怖だった。

■1999/01/22 (金) 詐欺師

アフガニスタン北部・クンドゥズ州――1999年1月22日、私は一人きりで廃虚を歩いていた。あと数キロで最前線に着くはずだった。1ヶ月前、マスード側から訪れたタハール州とクンドゥズ州の最前線はタリバンの支配下に移っていた。同じ戦場をタリバン側から取材してみたかった。どう違うのか。

数時間前、私はハーナバードのタリバン前線司令部を訪ねた。前線取材の許しを得るためだ。

許可は得られなかった。

前線司令官は「クンドゥズへ行って許可証を取ってきなさい」とだけいった。そんなものが取れるはずがない。この地域ではそもそも、タリバンが外国人の立ち入りを禁止している。私がここにいること自体、既にイレギュラーなのだ。

私は「帰ります」とだけいって、司令部を出た。市街地へ戻る振りをして、タリバンの戦士の姿が見えなくなるなり、くびすを返して前線の方角へ向かった。

たちまち、後ろから呼び止められた。タリバンの戦士だ。

「どこへ行く?」

「最前線を取材しに来た。日本のジャーナリストだ」

パスポートを見せながら、聞かれる前に先手を打つ。

「たった今、司令部へ行ってきたところだ」

嘘ではない。取材が認められなかったといわなかっただけだ。戦士は私が持っていたセカンドバッグの中を覗き込み、カメラをみとめるといった。

「申し訳なかった。気をつけて行ってください」

前線への道には所々クレーターが開き、薬莢が転がっている。日干し煉瓦の家はことごとく崩れ去っている。が、やがて、人も家も見えなくなった。地平線まで道が続いているだけだった。

突然、途方もない不安に駆られた。――私は帰れるのだろうか。

ここまで来ることができたことの方が奇跡のように感じていた。ここまでに必要とされた運が、帰り道にも続いてくれるとは思えなかった。これからすれ違うタリバンの中に、私がここにいることの異常さに気づくものが一人でもいれば、私は殺されるだろう。日本への道はあまりにも遠く思えた。到底帰れまい。無性に悲しくなった。

「どうした?」

突然、声を掛けられた。黒いルンギー(ターバン)を巻き、カラシニコフを背負った若者が立っていた。タリバンだ。

さっき職務質問を受けたときと同じ答えを並べた。

「最前線に一人で来るなんて無茶だな。歩くなんて正気の沙汰じゃない」

若い戦士はにかにか笑いながらいった。

「おれが付き合ってやるよ」

戦士の名はアハマド=ジャンといった。彼は人の良さが滲み出てしまう不良少年といった風体だった。彼はパキスタンで難民として少年時代を過ごし、カラチにあったタリバンのメドレッセ(イスラム神学校)でシャリーア(イスラム法)を学んだ。ここでは「神の名を利用してアフガニスタンを戦乱に陥れているムジャヒディンはイスラムの敵であり、イスラムの敵と戦うことはジハードである」と教えられたという。

「これからアフガニスタンは素晴らしい国になるよ。今までは本当にひどいことばかりだった。もうすぐ戦争は終わる。そうしたら再建が始まるんだ」

アハマド=ジャンの陽気な声を聞いているうちに、さっきまで私の全身を支配していた恐怖心が氷のように溶けていった。彼は走ってきたタリバンの連絡要員の四輪駆動車をヒッチハイクして、最前線まで運んでくれた。

わずか一ヶ月前に私がいた塹壕は一変していた。薬莢と羊の骨が転がっていること以外に、戦闘の跡を示すものは残っていなかった。私が戦士たちと寝泊まりしていた民家も、初めから誰もいなかったように静まり返っていた。少し離れた別の丘の上にタリバンの塹壕が作られていた。潔白を示すタリバンの白旗が立っている。パッコール(フェルト製の帽子)を被ったマスード派の戦士の代わりに、黒いルンギーを巻いたタリバンが数人ずつ見張りをしていた。

昨日はこの塹壕にマスード派からのロケット攻撃があったそうだ。今も数分に1回程度、銃声が響いていた。

「この音はタリバンが撃ってるのか?」

「いや、マスード派だ。敵だよ」

「ここは危険なのか?」

「最前線だから銃声ぐらいは当たり前さ。心配ない。おれがついてるって」

アハマド=ジャンはそういってウインクしてみせた。

マスード派がいたとき、最前線の村は完全に無人だった。しかし、今は道路沿いの小さな家に子供が二人だけ帰ってきているのを見つけた。通りに面した縁側にタバコや石鹸などを並べて商売しているらしい。

「なぜ今まで帰ってこなかったの?」

「マスード派がいたから」

「マスード派がいると帰れないの?」

「店を荒らすんだ」

廃虚の村に入ってみると、確かに略奪の跡があった。鍵が壊され、戸棚は引き倒され、残った家具が散乱していた。

ハーナバードへ戻る途中、白い旗を立てた大型軍用車が通りかかった。中には長い顎鬚が見える。タリバンの幹部クラスらしい。私の前で停まる。幹部クラスらしい男が私がここにいることがおかしいと気づいたらしい。

車から降りてきた男たちが私を両脇から抱えるようにして立った。パスポートを調べられ、クンドゥズ司令部の許可証がないことが問題になる。私はカンダハルで取ったヴィザを示し、それが国内すべての地域の旅行を許可するものだと言い張った。効き目がない。

「車に乗せろ」

アハマド=ジャンが幹部に食い下がった。何かを訴えている。パシュトゥー語なので私には分からない。さっき私が彼に話した内容らしい。私がイスラムの良い理解者だといっている。私をかばってくれている。メヘマン(客人)という言葉も聞こえる。

幹部の方が折れた。私に一礼して、そのまま車で去っていった。アハマド=ジャンに救われたらしい。私はマスード派側にいたことも、ごまかしのような方法でここまで来たことも、アハマド=ジャンに隠していた。私は彼の高潔さを利用した詐欺師だった。

■1999/02/03 (水) ニュースの意味

「よくいるんだよね。こういう戦闘シーンを撮ってきて使ってくれなんていうの」

東京――ある大手テレビ局の看板報道番組のデスクは私が撮ってきたアフガニスタンのVTR映像を見ながらいった。画面には空爆で死んだ戦士がロバの背に乗せられて運ばれて行くカットが映っていた。

「で、この戦争にどんな意味があるの?ニュースとして」

これ以上話をせずに帰ろうという衝動をおさえながら、私は説明した。

「イスラム政治運動―いわゆる『イスラム原理主義』グループ同士の全面対決の図式となった戦争は世界の歴史に例がないのです。イスラム政治運動は本来国際主義を志向しているから。近年イスラム回帰を志向していたイスラム世界の人たちにとって、この戦争は目前に見えていたはずの理想の破綻なのです」

本当はそんなことはどうでもいいと思っていた。人が殺し合っている現場がニュースでないはずがない。戦争にニュースとしてどんな意味があるのかという質問自体、この男がクズである証拠だ。しかし、殴り付けて出て行くどころか、口に出していうこともできずに、私は「営業」に専念した。――『イスラム原理主義』なんてアメリカがディスプロパガンダのために作った実体のない造語は使うべきでない――と信じている私が『原理主義』を連発して歓心を買おうとしていた。しかし、このデスクからは「一週間後に返事をする」と告げられ、のちに没を食らった。

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