閃光のラマッラ

■2000/10/23 (月) 予定表改訂版

はらにくが減った。
絨毯にコーラこぼした。

> 16日、月曜日、午後6時、高円寺、OS、MSとデート

実行。

> 17日、火曜日、午後6時半、月島、SYともんじゃ屋さんデート

実行。

> 18日、水曜日、午後7時、池袋、Aさんとデート

その後、キャンセル。

> 20日、金曜日、夕方、Iさんとデート

キャンセル。

> 22日、日曜日、午後、Mさんとデート

キャンセル。

> 23日、月曜日、午後3時、池袋、Kさんらとカラオケ、お食事デート

キャンセル。

> 24日(?)、火曜日、MHさんとギャルギャルお食事会

日時変更。

10月28日、WSとデート。
11月12日、Kとデート。

これも結局キャンセルになるのかなあ。
ダメ人間ライフを続けていると、
ギャルにもてないということが分かってきた。
ショックだ。

ギャルにもてるようになるには
やはり村田信一さんのようにカッコ良く
パレスティナへ行くべきなのだろうか?
ギャルもて作戦の一環としての
パレスティナ取材検討中。

■2000/11/06 (月) 宣伝マン

フリーの戦場ジャーナリスト常岡浩介が雑誌とテレビで書ききれなかった現場の話や取材や発表の裏話、そして豊島区東長崎での愉快な貧乏生活を記してゆきます。アフガニスタン、エチオピア、チェチェンの戦場ルポも。一方通行になりがちな大メディアの報道を個人の機動性を活用して相互コミュニケーションに変える試みです。ホームページはこちら↓
http://www16.tok2.com/home/sherko/title.htm

↑「さるさる日記」のホームページへ行って上の文章を張って宣伝してきました。
これだと宮嶋茂樹氏みたいな印象だろうか?
いずれにしてもここ数日の記述ではJAROに電話されても仕方がない。

そういうわけで、イメチェン計画。

さあ、今日は戦場ジャーナリストと新橋OLの皆さんとの合コンです。
参加者は「戦場からギャルまで」加藤健二郎氏、
「カシミールの聖戦士」広瀬和司氏、
そしてプリティモスレム常岡浩介の3人対、
ロシア語、ドイツ語、オランダ語通訳者の5(ペンタ)リンギャルNYさんと
その後輩のOLギャル併せて3人。

NYさん、「あたしたち、戦場ジャーナリストに興味津々」なんて
メールを下さるのだもの。
むかし、誰かが話してた。
世の中で一番女性にもてる職業はカメラマンなのだそうだ。
確かに、ファッショナブルだし、実際もてている知り合いのカメラマンは多い。
しかし、似たようなものに見えても、
ジャーナリストというのはもてない気がする。
地味だし、世間的にずれてるしなあ。

そうはいっても長崎でローカル報道記者やってたときはもてもてだったし。
やはりフリーとか、貧乏というのがいけないのだろう。
私がもてるには、パレスティナで稼ぎまくるしかないのだ。

■2000/11/11 (土) みんなすごい

菊池修さんの大迫力のパレスティナの写真がフライデーに掲載。
今岡昌子さんのエリトリアの写真と記事が月刊軍事研究に掲載。
村田信一さんのパレスティナの写真はTitle誌に月末ごろ掲載されるそうだ。
古居みずえさんはパレスティナの記事をAERAに続いてSAPIOにも発表する。
亀山亮さんもコロンビアの写真をSAPIOに出していた。
甦る男西牟田靖くんはいろんなバイク雑誌にサハリン紀行を発表するらしく、
佐賀の滞在先で精力的に原稿を書いているらしい。
みんな頑張っているなあ。
なんだか最近、一人っきりでこういう仕事を
しているような気分になっていたけど、
そんなことはない。
私もふにゃふにゃしてはいられないや。
しゃんとしなきゃ。
しゃんと。

■2000/11/17 (金) 日本人写真家パレスティナで被弾

パレスティナで撃たれたのは亀山亮さんだそうだ。
お会いしたことはない。
が、以前SAPIOで同じコーナーに
一緒に写真を紹介してもらったこともあり、
ずっと注目していた。
パレスティナで最も衝突が激しいラマラで、
石を投げるパレスティナ人の若者たちと一緒にいて、
イスラエル兵のゴム皮膜弾を左目に受けた。
現地の病院に運ばれた後、既に帰国されたそうだ。
被弾した部位が、写真家にとって最も大事な
眼だというのがとても気になる。
痛かっただろうなあ。
20歳から写真家として活動していて、
まだ24歳だそうだ。

日本では街頭でゲリラ的に写真展を開いていたそうだ。
ある日、突然アジアプレスの事務所に現れて、
「すみません。ここでプレスカード
作ってくれるって聞いたんですけど」
と言い放ちその場にいたメンバーの度肝を抜いた。
みなぎるパワーに圧倒され、
代表の野中氏は話を聞いた後、
彼のプレスカードを発行したそうだ。

彼はメキシコ・チアパス州の先住民族による抵抗組織
「サパティスタ民族解放軍」の取材をずいぶん長いこと
続けていたらしい。
今店頭に出ているSAPIOでは
コロンビア革命軍の写真を発表している。
コロンビアの写真を発表してすぐ、
パレスティナへ飛んでいたらしい。
私は写真はド素人に近いのだが、
大広角レンズで被写体にぎりぎりまで近づいて撮る
彼の写真の迫力ぐらいは伝わってくる。
生き方が現れているようだ。

なんとか元気になって、現場に復帰して欲しい。
祈るしかない。

モスクに金曜礼拝に行った。
代々木上原のモスクはマスコミ取材のラッシュで、
先々週はTBSのインタヴューを受けた。
今日は読売新聞の新人写真記者に話し掛けられた。

彼はこの9月、休みを取ってパレスティナ取材に行ったそうだ。
パレスティナ取材は9回目だ、というからには、
入社前から独自に取材を続けていたのだろう。
こんな意欲的な会社員ジャーナリストは珍しい。
少なくとも、長崎では自分以外に一人もいなかった。
彼の話では、エルサレム旧市街は全く商売の場所で、
衝突など起こりそうにないそうだ。
いつも衝突が起こるところというと、
ガザとラマラなのだそうだ。
ラマラと聞いて、亀山さんを思い出した。
私もラマラへ行こうと決めた。

イードや世紀明けはエルサレムのアル・アクサ・モスクを
見守って、それ以外の時間はラマラとガザで過ごすことにしよう。
もっとも、ラマラがどの辺にあるのか、
さっぱり分からないのだが。

彼に会えて良かった。

■2000/11/20 (月) おしり

今店頭に出ているAERA、
古居みずえさんのパレスティナの写真がでかでかと載っている。
見開きはパレスティナ青年たち二人のおしりのアップだ。
なかなかいいしりだ。
流石古居さん、しりを見る目がある。

今、私が着てるもの----

茶色の迷彩のジャケット:
アルマン・バカエフ司令官のプレゼント
濃緑色の軍用コート:
アゼリー人聖戦士ジャビルのプレゼント
Kiss Racingのライダーズ・ジャケット:
学生時代の走り屋仲間のプレゼント
黒い毛糸の帽子:
雪山で会った名も知らぬチェチェン戦士のプレゼント
茶色の秋用ジャケット:
祖父の形見
緑褐色のコーデュロイ地ジャケット:
同じく祖父の形見
ブラックデニムのパンツ:
モスクワで会ったフランス人バックパッカーのプレゼント
編み上げブーツ:
チェチェン聖戦士ムスリムのプレゼント
Tシャツ:
チェチェン人ムサのプレゼント
Tシャツその2:
元カノのプレゼント
ベルト:
ムサのプレゼント
履いてる靴下:
アゼリー人聖戦士アブドゥッラーのプレゼント
履いてるぱんつ:
同じくアブドゥッラーのプレゼント

※靴下、ぱんつは新品でもらった。

■2000/12/15 (金) 一眼レフ購入

今岡さんにCanonのEOS-1Nとフラッシュを売っていただいた。
ジャーナリストとして7年、そのうちフリーランスとして2年働いて、
初めて一眼レフを手に入れた。
さらに、店を紹介していただき、
TOKINAの19-35mm広角ズームレンズとフィルターを中古で買った。
あわせて凡そ11万円也。
12万円で買ったポケットカメラCONTAX TVS2よりも安い。
なんとか元を取りたいものだ。
できれば、アエロフロートの航空券61000円の元も取りたいものだ。
現地滞在費の元も取りたいものだ。
パレスティナ取材出発まであと3日。

■2000/12/18 (月) サーバーダウン

これから取材に出るという時に、ホームページのサーバーがダウンしてしまった。

ビックカメラ池袋東口駅前店でEOSの視度調整用レンズを買って、
カメラに取り付けると、初めてファインダーはクリアになった。
先日HMさんとカラオケに行った時、メガネをなくしてしまったのだが、
それ以来初めて、世界をシャープな画像で見たわけだ。
ファインダーの中の方が本当の視力を発揮できるという条件は
写真を撮る上でいいのだろうか?
ビデオカメラもシェラフも持って行かないのに、
バックパックははちきれそうになった。
カメラとフィルムがかさ張って重いせいだ。

ジェベル250SEは今岡さんの家の庭に置かせていただいた。
今岡さんは戦場で殉職した写真家の遺作を集めた写真集「レクイエム」や
「マグナム写真集」を見せてくれた上、
Canon EOS-1Nの解説ムックを貸してくれた。
フィルムもいっぱいくださった。
ううむ、がんばらねば。

■2000/12/19 (火) 雪のモスクワ

予約の都合とかで、モスクワ行きのアエロフロートはビジネスクラスになった。
機内食は確かに立派だった。
陶器の皿に盛られていたし、コース料理よろしく一品一品が
別々に運ばれてくるのだ。
スモークサーモンとエビのザクースカも、牛フィレのステーキも美味しかった。
おまけに量もただならぬほど多かった。
しかし、シートピッチは多分エコノミークラスと変わらぬものらしかったし、
それに、機内は満員で、窓側になった私はトイレに立つのも億劫だった。
徹夜明けで出発したのは、機内で眠って退屈をやり過ごすためだった。
が、なぜかさっぱり眠れなかった。

モスクワは氷点下8度。
一面の雪景色だ。
東京から一気に20度ほどの気温変化ということになる。
それなのに、さっぱり寒さを感じない。
モスクワに来るたび、拍子抜けする。
帽子も手袋も要らない。
セーターも使わずじまいになりそうだ。

半年ぶりのガリーナの家は、何一つ変わっていなかった。
恋人のセリョージャも元気そうだし、黒猫のアーシャも白猫のヤーシャも、
アーシャとヤーシャの小猫たちも変わらず私を迎えてくれた。

早速、モスクワ国立大学(MGU)の日本人留学生NKくんに電話、
明日午後会うことにした。
彼は私にMGUの偽造学生証をくれる。
家には私の他にロシア語を喋るアメリカ人の旅行者が泊まっていた。
彼は夜遊びが好きなのか、朝まで帰って来なかった。

■2000/12/22 (金) エルサレム

エルサレムに到着した。
晴天。
暖かい。
バスにはエアコンすら入っていた。

たった今、通り過ぎたダマスカス門前で、パレスティナ人の群集と
警察の衝突があったそうだ。
「1時間前」という映像がテレビに映し出された。
負傷した若者が仲間に担がれて救急車に乗せられていた。
まるきり平和に見えたのに。
信じられない。
やはりできる限り、街に出ていよう。
どこで何が起こるか予測しようがないし、
「衝突」と耳に入ったときにはもう終わっているのだ。

夜、パレスティナ人の店で散髪した。
ようやく人心地がついた。

■2000/12/25 (月) ベツレヘム流儀

キリスト生誕の地とされるベツレヘム。
旧約聖書に出てくるラケルという女性の墓があり、
ユダヤ教徒の聖地でもある。
現在はパレスティナ自治区の一都市であり、
ユダヤ人入植地とパレスティナ人難民キャンプが犇めいている。
2週間前にここでイスラエル軍によるキャンプへの無差別攻撃があり、
自動小銃、榴弾、ヘリコプターからのロケット攻撃で
40人のけが人が出た。
クリスマスの今日、パレスティナ人の1割に満たない
キリスト教徒がここでデモ行進を行った。
キリストの誕生を知って朝貢した東方の三博士の逸話を再現して、
パレスティナ旗や各国の旗を立てたラクダのキャラバンが
松明を掲げた子供たち数千人とともに隣のバイトサフールから行進した。
今回の衝突が始まってから殺された300人あまりを追悼する抗議行動だが、
イスラム教徒の抗議行動のように遺影を掲げるでもなく、
怒りのシュプレヒコールをあげるでもなく、
これまでのインティファーダとは全く趣を異にした
キリスト教徒らしい、彼らの流儀を通した格好だ。
イスラム教徒パレスティナ人たちは沿道や家々のテラスから
声援を送っていて、不思議な雰囲気だ。

明日はイード(イスラムの断食明けの祭り)で、
大規模衝突が予想されるため、ガザ地区へ移動する。

■2000/12/26 (火) ガザ地区・ラファハ

激しい衝突があったエジプトとの国境の町ラファハで
イスラム政党ハマスのサポーターの家庭に招かれ、歓待を受けた。
町事体はこの時期静かで、衝突はなかった。
ラファハの病院でイスラエル兵に撃たれた負傷者を取材した。

■2000/12/27 (水) ガザ地区・ハニユーニス

今日はイードだ。
ラファハの一家は私をイードの礼拝へ連れていってくれた。
ビラール・モスクという大きな建物で、
イスラム政党アル・ジハードの横断幕が掛かっていた。
アル・ジハードのチラシも配っている。

午後、ガザ地区でもっとも衝突の激しいといわれるハニユーニスへ。
しかし、深夜に自動小銃の連射音が聞こえるだけで、
石を投げる子供の姿もない。
11月にイスラエル兵に射殺されたムハンマド・アブ・ガリー君(15)の
遺族宅に招かれた。
ムハンマド君が射殺された場所まで
彼の従兄弟たちに連れていってもらった。
入植地とパレスティナ人居住区の境界線だ。
土嚢を積んだバリケードが築かれ、周辺の建物は弾痕だらけになっている。
バリケードを越えて、入植地に出稼ぎに行っていたパレスティナ人だろうか---大人たちが入植地側から戻ってくる。
子供たちはおもちゃの銃を持って、バリケードによじ登って遊んでいた。
ここでも衝突には遭遇できない。
話を聞いた後で、ムハンマド君の家族に夕食までご馳走になった。
深夜、自動小銃の連射音がホテルの部屋で聞こえた。

■2000/12/28 (木) ムハンマド・サガ

朝からホテルを出て、昨日案内してもらった
入植地との境界線へ出かけた。
イスラエル兵のチェックポストを通って、入植地内に入った。
ガザはエルサレムやテルアビブと比べて極端に貧しく、
別の国に来たようだったが、
入植地に入ると、また別の国に入ったようだ。

殉教したムハンマド君の従兄弟はムハンマド・サガ(18)という。
アメリカで医学を学んでいたが、親類の不幸を聞いて戻ってきた。

■2000/12/29 (金) アル・アクサ

聖預言者ムハンマドが昇天したという岩のドームを初めて訪れた。
その傍らにあるイスラム第三の聖地アル・アクサ・モスクで礼拝した。
エルサレム旧市街獅子門の内側に神殿の丘の入り口があり、
その前に数十人のイスラエル兵が監視していた。
その周りに海外のジャーナリストも詰め掛けていた。
イード3日目に金曜日が重なったため、
アル・アクサに入ることを許されない自治区のパレスティナ人の
抗議行動に警戒しているのだ。
入ろうとすると、「モスレムだけだ」と止められた。
ファティハを唱えて見せ、信者であることを示すと、
荷物をチェックされた後、入場を許可された。
まっすぐにアル・アクサへ入り、礼拝した。
外では百人あまりの男達が人だかりを作っている。
真ん中で年老いた男が、何かアジテーションのような調子で
群集に向かって話していた。
一旦戻ろうと踵を返した途端、どこからか平服の男が走ってきて、
「荷物を見せろ!」と怒鳴った。
これがモサドなのか?
イマームの講話はアラビア語だったから、さっぱり分からなかったが、
「インティファーダ」、「ジハード」、「シャヒード」
といった語が聞き取れた。
果たして、礼拝後、参拝者達は静かに家路に就き、
予想されていた混乱はなかった。

今日、ラマッラではデモ隊に対してイスラエル兵が催涙ガスを使い、
15人が怪我をしたそうだ。

■2000/12/31 (日) 閃光のラマッラ

朝からラマッラへ。
入植地との境にバリケードが築かれ、イスラエル軍のジープが警戒していた。
子供たちが数人、それに向かって石を投げている。
今日は大規模なデモが予定されているはずだ。
デモの群集はここへ合流して、大きな衝突に発展する可能性がある。
デモは盛り上がるとすると夕方だが、昼頃になると若者たちが集まってきた。
子供たちとともに、ジープにかなり接近して、投石を撮影していると、
いきなりジープから兵士が飛び出し、発砲を始めた。
子供たちも私も、頭を低くしながら逃げる。
銃声の直後、初めは右に、次に左に、「シューン」と風が唸る音が聞こえた。
銃弾が側をかすめている。
砲弾の唸る音はアフガニスタンで聞いたが、
自動小銃の銃弾の飛ぶ音は初めてだ。
少し高くなった建物の陰に退避して、再び石を投げはじめた子供たちを撮る。
再び銃声と「シューン」と唸る音。
右脇の壁に着弾する音も聞こえた。
白い煙が見えた。
「ガズ!」
若者が叫ぶ。
催涙ガスだった。
幸い、私たちがいる高台は追い風になっていて
煙はたちまち、ジープの方に流されてゆく。
若者たちは風向きを考えた上で自分たちの場所を決めているのだろう。

若者の一人が撃たれた。
が、自力で歩いていて、腕が赤く腫れただけだ。
これで分かった。
イスラエル兵が使っているのは実弾ではなく、ゴム皮膜弾だ。
恐怖が消えた。

子供たちがジープに近づかなくなったので、
バリケードの脇を通って遠回りし、ジープに接近した。
道路の端っこを通っていったのだが、
そこにも石は飛んでくる。
ジープはパレスティナ側から死角になった後部ドアを開けていて、
そこに数人の兵士たちが見えた。
兵士が私に手招きした。
私も死角に入る。
石がすぐ側に飛んでくる。
ジープのボンネットにも命中する。
兵士たちは口々に私に何かいった。
写真を撮ってもいいというジェスチュアにみえたり、
撮るなといいたそうでもあったり、
よく分からない。
英語は誰も話さない。
ジープが後退するから下がっていろ、というところだけは分かった。
私は立ち木の陰に下がって隠れた。
その立ち木にも石があたり、私の頭の上に枝や葉が降ってきた。

ジープが動き出した。
私は体を低くして、後を追った。
ジープが子供たちを追い掛けるように
前の通りに出て停まると、
兵士たちが飛び出してきた。
雄叫びを上げながら自動小銃で子供たちを狙い撃ちする。
私は最接近してシャッターを押すが、
もはや兵士たちの目には私が入っていないかのようだ。
撃ち尽くすとジープに戻って弾倉を代え、また撃つ。
けたたましいサイレンの音が聞こえ、
子供たちの向こうに救急車が現れた。
負傷者が出たのだ。
それでも、兵士たちは射撃を止めなかった。

ジープが後退した後、私は荒れ地を横切って子供たちの元へ戻った。
何人かが私の腕を取ったが、
様子がおかしい。
子供に混じって中年の男がいるのだが、
これが私のことを非難しているのだ。
「この男はジープの中に入っていた。おれたちを写したフィルムを渡したに違いない」
周囲には他にも外人ジャーナリストがいたが、
イスラエル兵はおろか子供たちの側にさえ寄らず、
はるか彼方の安全圏から望遠レンズを構えていたから、
私だけが浮き上がってみえたのだろう。
「今持っているフィルムを渡せ!」

ジャーナリストの中のアラビア語が話せる白人に、私はいった。
「彼らは誤解している。イスラエル兵を撮影するのは当たり前のことだ。
フィルムを渡したなどとんでもないことだ」
このジャーナリストは思いもよらないことをいった。
「分かっている。
が、フィルムを渡さないと彼らの怒りは静まらない。
おとなしく渡した方がいい。
われわれは一緒に取材しているんだ。
君一人の行動で、みんなが迷惑するんだよ」

彼らがすべき取材をしなかったために
私が一人浮き上がってみえたというのに、
この男には恥というものがないのか?
おまけにジャーナリストがジャーナリストに向かって、
フィルムを他人に渡せとは・・・・・

フィルムをもぎ取られた上、腕をつかまれて車に乗せられた。
車の中で盛んに悪態を突く私に、
私を捕らえた男が「ドント・スピーク」と繰り返した。
車は警察へゆくのかと思えば、
ラマッラ中心街の写真店の前に停まった。

男は私のフィルムを現像して、内容を検閲したかったらしいが、
この写真店ではリバーサルフィルムの現像は受け付けていなかった。
ざまあみやがれ。
「なぜスライドフィルムを使っている」
と私を捕らえた男が問う。
とことん、疑いたいらしい。
男は店の主人にフィルムを預けると帰っていった。

■2001/01/01 (月) 瞬間・観世音菩薩

昨日の顛末を先に説明する。
私は写真店の主人が英語を話すので、早口になって自分の立場を訴えた。
理屈を説明したのではない。
私はモスレムとして、いかに同胞のジハードを見届けたいと思ったか、
にもかかわらず、このような扱いを受けていかに失望したかといった話を、
腹立たしさにまかせてぶちまけたのだ。
これを、主人と客の一人は無条件に信用してくれた。
私を連れてきた中年男を説得して家に帰し、私のフィルムを返した。
私を支持してくれた客はパレスチナ人のジャーナリストで、
名を他でもないジハード氏といった。
彼は私をタクシーでパレスチナ情報省へ連れて行ってくれ、
お陰で私はその場でプレスカードを発行してもらった。

衝突現場に戻ってカードを見せると、若者たちは歓声を上げて迎えてくれた。
私を捕らえた男も戻っていて、カードを見ると右手を差し出して謝罪し、
仲直りを求めた。
仲直りのしるしなのか、持ってきた弁当まで振る舞ってくれた。
催涙ガス弾とゴム皮膜弾が舞う衝突現場で、
私たちは岩の陰でホムスの弁当を平らげた。

そして、翌1月1日。
ラマッラでは数千人規模のデモがあった。
ファタハが主催したデモの参加者は、カフィーヤを顔に巻き、
往年のパレスチナ・ゲリラのいでたちで町を練り歩いた。

デモの後の投石には、昨日よりも多くが参加した。
イスラエル側は、昨日よりも多くの催涙ガス弾を撃ち込んできた。
直撃を食らった若者の一人が、呼吸困難に陥って、
のた打ち回って苦しんでいる。
風上にいれば大丈夫と、高を括っていたら、
風向きが変わったほんの一瞬、白い煙に触れた。
消毒剤の臭いがし、同時に肺の中が焼けるように熱くなった。
涙がこぼれる。
後方に逃げ込んで咳き込んでいたら、
欧米人の女性ジャーナリストが脱脂綿を一掴み、
私に差し出した。
「使いなさい」
目に当てると、化粧水の匂いがした。
地獄に仏とはこのことである。
その瞬間、私はこの30代半ばと思しきブルネットの女性記者に
ほとんど恋をした。

■2001/01/05 (金) 屍

ガザ市の中心街にあるシェファード病院。
ここには、ガザ地区のインティファーダで負傷した人たちのうち、
けがの重い人たちが運ばれると聞いた。
受付で患者を取材させてもらいたい由を話すと、医師の一人が案内に立った。
2時間前に運びこまれたばかりの患者がいるという。
連れて行かれたのはしかし、病室ではなかった。
遺体安置室。
一見30歳ぐらいの痩せた男性が、裸にシーツを掛けられた状態で横たわっていた。
こめかみと、脇腹に穴が開いていて、こめかみから入った弾丸に砕かれたのだろう、頭蓋がおかしなふうに崩れて、顔の上半分が歪んでいた。
片目は、撃たれた時に飛び出したのか、なかった。
金属製の板に載せられていて、板は血で真っ赤だった。

「この人は通勤途中で撃たれました。
警察官でも軍人でもはありません。
彼は一般人です。3発の銃弾で、即死でした」
病院職員が説明した。

夜、エルサレムに戻って、
イスラエル当局がガザのパレスチナ人射殺を認めたことを知った。
普段は認めさえしないことの方が多い。
発表によると、ガザの北のバイトハヌーンで
男性がイスラムのスローガンを叫びながら、
イスラエル軍施設に侵入しようとし、
攻撃の意図が明らかであったため射殺した、とのこと。

■2001/01/08 (月) 成田くんが撃たれた

一緒に動いていた新人フリー・カメラマン成田慎くん(23)が
私の目の前で撃たれた。
ラマッラで今日、イスラム系13団体のデモがあり、
デモ隊とイスラエル軍の衝突を取材中だった。
成田くんが撃たれた時、私は2メートルほど離れたバリケードの陰にいた。
デモ隊が一斉に石を投げ始め、
それに対してイスラエル軍のジープが二台、
バリケードに突進をかけようとしていた。
イスラエル軍が群集に発砲を始めたので、
私はバリケードの陰に身を隠した。
隣でうめき声がした。
成田くんは足を押さえてうずくまっていた。
同時に2発の催涙ガス弾が私と成田くんの間に撃ち込まれ、
踵を返した私の前にもう一発撃ち込まれた。
白い煙の中、私は目と口を押さえて退避した。
振り返ると、パレスティナ人の若者たちが
成田くんを担いで救急車に運び込んでいた。
「大丈夫か?成田くん、大丈夫か?」
救急車の中から、「大丈夫です」と声が聞こえた。
成田くんはゴム皮膜弾を左足に受け、
肉をえぐり取られたような傷だった。
傷を見て私はてっきり、実弾が使われたのだと思った。
ゴム皮膜弾にも、人の肉をえぐる力があるのだ。
幸い、命に別状はない。
成田くんは大学を出た後、戦場カメラマンに憧れて、
バイトで溜めたお金を持ってパレスティナに来ていた。
ここがデヴュー戦だった。
加藤健二郎さんや菊池修さんのことを尊敬しているそうで、
いろいろと尋ねられた。
昨秋から続いているインティファーダで負傷した日本人ジャーナリストは
亀山亮さんに次いで2人目だ。
亀山さんもラマッラで目を撃たれた。
先日は、一緒にいたスウェーデン人カメラマンが
ラマッラでユダヤ人右翼に刺されて足を負傷した。
ラマッラではここ数日、子供がイスラエル兵に射殺される事件が
あとを絶たないそうだ。

パーム・ホステルのマネージャー・ポールが、「今夜は平和集会だ」という。
ユダヤの市民が人間の鎖でエルサレム旧市街を包み込むのだそうだ。
おかしな話だ。
NGOパレスチナ平和フォーラムの役重さんが、
インターネットから正確な情報を見つけて来てくれた。
やはり、集会をやるのはユダヤの極右団体だそうだった。

夕方、果たしてイスラエル治安部隊が、旧市街の周りに集結し始めた。
パレスチナ人の住む東エルサレムと西エルサレムの境界付近、
その東エルサレム側に、鉄柵のバリケードを立ててゆく。
パレスチナ人は西エルサレムに立ち入れない。

バリケードの向こうから、レイブの音楽が聞こえてくる。
パレスチナ人の若者が集まってきた。
騎馬警官隊に野次をとばす。
警官隊は馬をけしかけて、群集を追いたて、
食い下がってきた何人かと睨み合っている。
ついに、パレスチナ人の誰かが石を投げた。
その瞬間、数十人の警官隊が手に手に棍棒を持って、
一斉に群集に殴り掛かった。

私はパスポートを見せて、バリケードを潜り、西エルサレムへ歩いていった。
近づくにつれ、人の密度が増し、
ついにだだっ広い広場が満員電車のようになった。
役重さんに「極右団体の集会」と聞いていたが、
どうも間違いらしい。
明るい音楽、若い女性と子供ばかりが目に付く。
ポールがいった通り、平和集会だろう。
いや、間違いではなかった。
パレスチナの国旗に髑髏を重ねたプラカードが、
その女性たちの頭上に翻っていた。
いったい何万人いるのか、遥かな建物の陰まで、
ずっと人の頭が寿司詰めになっている。
それが、目も眩まんばかりのセクシー・ギャルばかりで、
どれもこれもおへそを出して踊り狂っている。
カメラを向けると、黄色い歓声が沸いた。
ユダヤギャルがこれほど可愛いとは知らなかった。
ギャルギャルにもみくちゃにされながら、
私は薄れ行く意識の恍惚の中、
あんなパレスチナのむさ苦しい連中に付き合うより、
こっちにずっといたいなあ、と考えていた。
私が極右がいやなのは、頑固で、分からず屋で、危なそうだからだ。
こんなに可愛いということは、極右といったって
そんなに危なくないかもしれないし。
ひょっとすると、イスラエルはパレスチナより
正しいのではないだろうか。

私は魂を売り飛ばす5秒前だった。

■2001/01/09 (火) ガザの銃声

宿のおやじトゥトゥが「ガザでも日本人が撃たれた」というので、
ガザに居るはずの古居みずえさんの身の上を心配していたら、
ようやく今朝、本人から電話があった。
古居さんは古居さんで、地元紙で
「ラマッラで日本人ジャーナリスト負傷」の記事を読んで、
私のことかもしれぬと心配して下さったらしい。
古居さんはイスラエル軍による幹線道路封鎖のため、
ガザ市から3日間出られなかった。
ようやく中部の都市まで出たが、まだ南部にはたどり着けない。
電話の向こうからひっきりなしに激しい銃声が聞こえていた。

E-mailで連絡を取っていた日本の雑誌社から
原稿依頼を受けたので、帰国が延びそうだ。
今日は使う写真の現像のため、歩き回っていた。
今夜、エルサレムでは皆既月蝕だ。

■2001/01/10 (水) マッハの恐怖

銃の発射音の直後、「シューン」という銃弾の飛来音が聞こえる。
発射音と飛来音はほとんど同時だが、それでもごく短い時間差がある。
だから、発射音を聞いて伏せれば、弾丸を避けられると思った。
ところが今頃になって、自分の阿呆さ加減に気づいた。
弾丸の初速度は音速を超えているのだから、
私が発射音を聞いた時には既に、弾丸は私の後ろへ通り過ぎているはずだ。
「シューン」の飛来音も、ずっとあとから遅れて聞こえていると考えるべきだ。
音で弾丸はよけきれないのだ。
がっくりこん。

■2001/01/12 (金) 単一ベクトル

金曜日のラマッラのデモは膨れ上がって、そのままバリケードに突き進んだ。
元日のものと違って、ハマスなどイスラム組織が参加している。
イスラエル治安部隊は、これに雨のような催涙ガス弾を見舞った。

一面白い煙。恐ろしい臭い。胸の中が焼けるように痛み、
私は涙を流しながら咳き込んだ。
イスラエル軍が使用する催涙ガスは非常に強力なもので、
吸い込むと息を吸っても酸素が取り入れられないような症状に陥り、
重い場合は死亡する。
これまでに大勢が催涙ガスによる酸欠で死んだ。
次々と倒れる若者たちを、救急隊員が黙々と運び出す。
倒れた仲間の脇を、別の若者たちが次々にガスの白い煙の中を突き進んで行く。
一旦ガスにまかれて、群集から飛び出した私は、
信じられない光景を目にした。
撃ち込まれ、白い煙を噴き続けているガス弾を、少年が拾って、
イスラエル軍のジープめがけて投げ返したのだ。
ガス弾はジープの風上に落ち、イスラエル兵は慌てて後退した。

空の高いところまで煙は立ち昇り、その中を石が飛ぶ。
石はしかし、何ものをも傷つけることができない。
イスラエル兵は鋼鉄の車両の中に匿われているのだ。
倒れてゆくのは、パレスチナの若者たちだけだ。
彼らは、イスラエル兵を倒すために石を投げるのではなく、
自らが倒れるために、ガスの中を進んでいる。
「ああ、もうやめろ」と、嘆願したい衝動に駆られた。
若者たちは、非暴力主義とは口にしない。
しかし、インドの独立運動はおそらく、
これとほとんど同じ光景だったのではないか、と思った。

■2001/01/13 (土) Amman

Buji genkou wo kaki agete kesa Jerusalem wo ato ni shita.
Shabat nanode noriai taxi ga denai ka to shimpai shita ga nantoka 1 dai mitsukatta.
Kuuro Israel wo shukkoku suru to taihen hanzatsu na torishirabe wo ukeru to kiite ita ga King Hussein Bridge keiyu no shukkoku ha odoroku hodo kantai de Custam decraration sae nakatta.
Amman ni tsuite sugu Aeroflot no office wo tazune asu no ticket wo yoyaku suru.
Banji OK.

■2001/01/14 (日) モスクワ

モスクワはマイナス一度。
雪深いが、暖かい。
ガリーナと黒猫のアーシャはいつも通り、温かく迎えてくれた。
旅行代理店で、ロシアVISAのインビテーションを
郵送で日本へ送ってもらえるよう、手続きを取る。
アホートヌィ・リャートの地下道の出店で、
Bjork二枚とAlsu一枚、CDアルバムを合わせて三枚購入する。
〆て10ドル。
あとは帰るだけだ。

■2001/01/16 (火) 帰国

帰国した。
今回、出国前と出国後で、私の精神状態は随分違っていた。
出国前、あれほど治らなかった極端な昼夜逆転生活が、
モスクワから先、けろりと治って、日中何の苦もなく活動でき、
夜になるとあっという間に眠れた。
取材がうまくゆき始めると、それまでの陰鬱な状態それ事体を
私は忘れ去っていた。
私はやはり仕事人間らしい。
仕事さえうまくゆけば、あとはなんでもいいのだ。

■2001/01/18 (木) 現像事故

写真の現像ができた。
結果は、逆光撮影や夜間のフラッシュ撮影はほとんどうまくいっていない。
逆光では、考えていたよりもずっと大きな露出補正をすべきだったようだ。
それに次は、やはり適当な望遠レンズを一本持って行こう。

フィルムの一本がほぼ丸ごと露光して、何も写っていない。
現像店の店員によると、コダクロームの現像を下請けに出した店で
事故があったとのこと。

失われたフィルムに何が写っていたか、帰宅してから思い出した。
エルサレムの新門の外で、物乞いをしていた小さなパレスチナ人の少女だ。
6歳か7歳だろうか、大した人通りもない坂道に、一人座っていた。
通りかかった真っ赤な洋服を着た同じ年頃の姉妹が、この子に何か話し掛けた。
たぶん、「なにしてるの?」とか、いったのだろう。
少女は答えたが、声があまりに小さくて、聞き取れなかった。
姉妹が通り過ぎるのを、目で追っていた。
広大な坂道と小さな少女、そして向こうに見えるエルサレムの街並みが
あまりに天啓的な調和を見せていて、私はカメラを構えた。
しかし、レンズを見ると、彼女は目を伏せた。
目を伏せた少女は、いよいよ彼女の境遇を全身で体現する絵画となった。
私はハイエナの指でシャッターを押し、
それから偽善の10シェケル硬貨を彼女に渡した。
彼女は笑わなかった。

コダクロームの現像店では、私のフィルムを機械に通している最中に
異常事態発生の警報ブザーが鳴った。
スタッフは慌てて、機械のカバーを開き、
その瞬間、可視光線がフィルムの中の少女の姿を
きれいさっぱり焼き尽くしたのだろう。
フィルムが失われたことで、なんだか証拠を隠滅したような気がした。
しかし、あの少女をもう一度見たいという気持ちも消えない。

現像店は、補償として未使用フィルム50本をよこすそうだ。

■2001/01/23 (火) ばったり

成田くんと再会した。
都内某所で。
ばったりと。
考えられるもっとも野暮なタイミングで。
用事を終えて、後を追ったが、もう地下鉄で去った後だったようだ。

傷口が化膿したといっていたから、
まだ京都にいるものとばかり思っていたが、
やはりパワフルな青年だ。

フリー・ジャーナリスト大高美貴さんともお会いした。
元ミス日本の戦場ジャーナリストという、異色の経歴の持ち主だ。
私と時期を一次重なって、去年末までパレスチナを取材していた。
その記事は次号のSABRA(講談社)に掲載されるそうだ。
先日、「シルクロードがむしゃら紀行」(新潮社)という本を
出したばっかりだ。
著書にサインしていただいた。
なぜか、南国名産「ごまざた」というお菓子もいただいた。

■2001/01/24 (水) 子羊

成田くんを都内某所で捕獲に成功。
呼び出したわけではない。
昨日に続いて、立ち寄り先でばったり出会ったのだ。
フリー・ジャーナリストの行動って、
なんと限られていることだろう。
私は成田くんに東長崎への出頭を命じ、半ば強制的に
不動産屋回りと、加藤健二郎さん、村上和巳くんへの
面通しを行った。
加藤さんは成田くんに、サイン入り著書を贈ると共に、
フリーとして生き延びるためのサバイバル術を伝授していた。
加藤さんを遠く尊敬し続けていたという成田くんは
感激にうち震えながら目を輝かせて聞き入っているのであった。
さよう、成田くんは東長崎機関に自動登録される運命なのだ。
哀れ犠牲者よ。

■2001/01/30 (火) フラッシュ

光文社の写真週刊誌フラッシュで来週、
パレスチナの写真と記事を掲載することになった。
私だけではない。
成田くんもだ。
すばらしい。
先週、私と成田くんは光文社ビルの前でばったり出くわした。
実はその前日にも同じタイミングで偶然会っていた。
私が編集者Yさんに写真を見ていただいている間、
同じテーブルで成田くんは別の編集者に自分の写真を見てもらっていた。
Yさんからの留守番電話を聞いて、すぐに成田くんに電話したが、
こちらもまた留守番電話だった。
私にとっては、初めて本格的に一眼レフでスナップ取材をし、
それが他ならぬ「写真」週刊誌で認めてもらえたということで、
とっても嬉しかったりする。

■2001/02/05 (月) 噂通りの男

今日、亀山亮さんがアジアプレスを訪ねてくる。
ラマッラで左目を撃たれたフリー・カメラマンだ。
アジアプレス代表野中さんに無理に頼んで、
野中さんと亀山さんの話に同席させてもらった。
初めて会う亀山さんは想像とは違っていた。
もっさりした山男かと思っていた。
山男は山男かも知れない。
しかしもっさりではなく、精悍で豪胆な表情を持っていた。
浅黒い彫りの深い顔、太くてまっすぐな眉、
大きな黒い瞳、うしろで縛った長い髪、
筋肉質な腕がそう思わせた。
撃たれた左目は、一見何の問題もなさそうに、
真っ直ぐに私を見据えていた。
見えていないとは思えなかった。
私より6歳も年下なのに、タメ口だった。
私の方が、敬語で喋っていた。
17-35mmの広角ズームレンズを新しく購入したそうだ。
今までだって亀山さんの写真はいつも、
大広角レンズで対象に迫れるだけ迫っていた。
「やはり広角で突っ込まないと」という点で、
私たちは意気投合した。
意気投合したというよりも、
私は亀山さんの写真から、広角レンズの魅力を学んだのだ。
「今度帰って来たら、一緒に何かやりたいね」
亀山さんはそういってくれた。
亀山さんは、3日後再びパレスチナへ向かう。
半年は帰ってくる予定がないという。

光文社へ行って、ポジフィルムを返してもらってきた。
フラッシュのギャラは、成田さんと分け合う形になるので、
私の分は12万円だ。
国際協力と併せて16万5千円也。
まだまだ取材費の元は取れない。
Y編集者によると、写真週刊誌としては情報の速さが最も大事だ。
現場からデジカメの画像をネットで送ってもらえないか、
ということだった。
もっともな話だ。

The Chicken Reports Topへ

ホームページへ

[PR] | 看護師 求人美容整形インプラント監視カメラインプラントヘアメイク 学校転職サイトSEOアクセス解析ハウスメーカーレンタルオフィスSEO対策消費者金融不動産担保ローン時計車 買取ハワイ挙式アスクル転職生命保険テンプレート沖縄旅行動画免許合宿二輪引越し消費者金融税理士ゴルフ会員権留学レーシックマッサージFX投資信託くりっく365アフィリエイト育毛剤FXホームページ制作デイトレードFXホノルルマラソンベスト ハワイ ホテル レーツバリ島ハワイウエディングHawaii hotelsHawaii Activitiesbhhr
【運営会社「パラダイムシフト」サービス】 ハワイ現地オプショナルツアーリラックマ.ハワイ情報) - ビジネスクラス航空券 - 格安航空券(1) - 格安航空券(2) - 海外ホテル - 韓国旅行
無料ホームページ作成 - レンタルサーバー - 携帯ホームページ - ブログ - ホテル 予約 - タイムシェア - ヴィラ - ハワイ コンドミニアム - バリ島 ホテル - ハワイ 不動産 - プーケット ホテル
[PR] 美容整形外科を選ぶならこちらから。まずは比較してみましょう