日米両国に

滞在しながら

民主化運動に

取り組んだ。

1973年

(昭和48年)

8月8日、

東京に滞在中、

ホテルグランドパレスで

何者か(複数)によって

拉致され、

行方不明となった。

この犯人たちは、

謀殺を意図した

韓国中央情報部

(KCIA)

であった事が、

後に判明するが、

拉致後、

日本から

出港した

船の上で、

殺害直前の

状況に

なった際、

軍用機が

船の上を

旋回し、

殺害を

中止させている。

その後、

ソウルの

自宅に

現れ、

ソウルで

軟禁状態に

置かれた

(金大中事件)。

1976年

3月には

伊晋善らと共に

「民主救国宣言」

を発表、

逮捕され

懲役判決を受けるも、

1978年

3月に

釈放される。

1980年

2月19日には

公民権を回復・

政治活動を再開するが、

5月18日に

再び逮捕。

これが原因となって

光州で起きた

民主化要求のデモを

軍部が鎮圧し、

流血の惨事となる

(光州事件)。

このため

軍法会議で

首謀者として

死刑判決を

受ける。

このことに対して、

当時の鈴木善幸首相は、

11月21日に

崔慶禄駐日大使と

会談し

「日韓親善からみて、

金大中の身柄に

重大な関心と

憂慮の意を

抱かざるを得ない」と

発言し、

その旨を

全斗換大統領に

伝達するよう

要請した。

この事を受け、

朝鮮日報は

11月25日付の

紙面で、

鈴木発言を

「内政干渉である」と

批判した。

しかし、

次第に

死刑判決に対する

国際的な批判が

強まり、

1982年

1月23日に

閣議決定により

無期懲役に

減刑される事が

決定し、

12月23日に

米国への出国

を条件に

刑の執行を

停止される。

 

1985年

2月8日に

亡命先の

米国からの

帰国を

強行し

軟禁状態に

置かれたが

3月6日に

全斗換大統領により

政治活動を

解禁される。

1987年には

再び公民権を回復、

大統領選挙で

平和民主党を結成し、

蘆泰愚に挑むものの、

金泳三と分立したことが

文民勢力の分裂を招き

敗北。

1992年にも

再び金泳三、樽周永らを

相手に

大統領選を戦うも

敗北。

これをもって

金大中は

政界引退を

表明した。

その後

研究生活に

入り、

論文を

書く日々を

送っていたが、

次回大統領選挙に向け

動向に注目が集まっていた

1995年、

新政治国民会議

を結成し

総裁に就任。

政界復帰した。

 

 

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