ドラッカーの知識社会の 力と変化と、先日の田中真紀子氏のTV朝日の番組を 参考にしながら 、小沢一郎代表の 健康を案じつつ、 何が出来るかを探るものです。(09-3-16)

 

 

 

1.収支報告書形式犯  ほかの議員(自民党議員)とどこが違うのか  

 

2.問題の二つの政治団体から 8人の議員が献金を受け取っていた。尾身議員は町村派で沖縄北方大臣をしていた西松建設から1200万円

団体の設立当初から尾身議員はもらっている。西松はこの5年間で5件の公共工事を沖縄で行っている。

 

95年新政治問題研究会  99年未来産業研究会

 

 

3.尾身議員は返金するとし森議員など5人は返金を検討すると返答した。

政権交代が行われると言われていたこの時期に野党第一党の代表の秘書が逮捕されるという衝撃。

 

 

4.政治的影響が極めて大きい。普通はこういう時期にこのような捜査に着手しないというのが常識。

 

 

5.8人の方の言い分は「法にのっとり適切に処理している」と小沢代表とまったく同じなのになぜ小沢代表の秘書だけが逮捕されたのか。

 

 

6.小沢代表への献金が突出していたオバマも突出していた。(民意の期待を受けて)

 

 

7.受け取る側に認識があったのか

 

 

8.認識がなかったとは考えられない

 

 

9.認識していればそれだけで直ちに政治資金規正法違反が成立するかといえばそうではない。違反とは限らない寄付行為者を記載しなさいと言っているけど資金の拠出者を記載しなさいと言ってはいない。

 

 

10.政治資金規正法は.寄付行為者を記載しなさいと義務付けているが資金の拠出者を記載しなさいと義務付けてはいません

 

 

11.実態のある寄付行為者かどうか政治団体かどうかその透明性を見る

 

12.国策捜査のそしり

 

13田中真紀子議員に聞く

 

14軽躁国家日本

 

 

15田中角栄のとき岡田光成最高裁判長が一審の時にこれはもうずっと有罪だといった

 

 

16.三木武夫の田中角栄逮捕の指揮権発動。今麻生の官房副長官に閏間元警察庁長官

 

 

17官僚組織のトップである.官房副長官に警察庁長官であった閏間が就いた。警察に指揮権発動しないまでもちょっとした言動で警察と膨大な官僚への圧力になる。

 

 

18.支持率のデータ

 

 

19.国民も民主党も数値に惑わされるかが試されている。

 

 

20官僚は本来洩らしてはいけない守秘義務を洩らし、メディアは情報源としてそれに飛びつき持ちつ持たれつの関係になっている官僚とメディア。情報がお化けのように飛び交う中、人々は国民は冷静に落ち着いて判断して行かなければならない。

 

 

21.与党議員は予算編成権がある野党議員はない。(もと総理やって献金をもらっていた人など)便宜を図れる与党議員お構いなしで予算編成権のない職務権限のない、便宜をはかれない野党議員が真っ先に捜査されるのは不公正、何を考えているのか。

 

 

22.職務権限のある与党議員はお構いなし職務権限のない野党の議員をやるというのはどういうことか同じ政治資金規正法違反の場合、便宜強要的なものがあるかないかで考えるのに(野党議員は便宜も図れないのに)。

 

 

23表(おもて)に出ている事件ではなんで小沢代表だけが対象になるのか想像がつかない。

 

 

24小沢代表はやめる必要ない。政治とお金は政権交代でクリアになる。

 

 

25.国益をどう守るか。政権が変わって困るという人がいるんじゃないか。検察は政権が変わって困るという一割の人の代表をしているんですか。基本的な政策転換が困るという人がいるんですか。田中角栄氏が逮捕されたとき検察は「俺たちは日本の民主主義を守るためにやった」と言っている。

CIAとかKGBとか政治は永田町だけでやっているわけではない。

51年前、事の発端はアメリカの外交で第一委員会で突然起こった。他の国ドイツなど全部はそれを不問に付した。日本だけが政権構想みたいなことで面白おかしく報道されてきた。

三木さんが藤原公達さんを呼んで「俺は警察をアメリカに送ったほうが長生きするか、送んない方が長生きするか」といった。中途半端はだめだと。。。。三木さんが警察に行ってくれといったから行ったんですよ。警察にアメリカに行けと言ったんですよ。

 

 

26.政権交代をすることによってもっと透明に国民政治が近づくんですよ。国民不在のその様な力があってはいけませんよね。そういうことが生活者にも分かるようなメディアに

 

 

 

以下ドラッカー著書参照

 

我々は無能な政府をとるか、それとも意思決定方向付けに専念している活力のある政府をとるかということに直面している。

 
 
今日の多様社会にあって我々が取るべきは、それぞれの機関がそれぞれの得意とするものに従事するという多様性への道である。
 
 
現代社会の構造と課題は単細胞の政府の手には負えない。その様な単細胞政府が成立するには「絶対独裁」が必要である。しかるに絶対独裁は独裁者当人の寿命を大きく超えて続くことは出来ない。
 
 
技術は今後も必要かつ望ましいものとされ続ける。
好むと好まざるとに関わらず、技術と取り組んでいくことになる。国際競争にさらされつつ、技術開発を進めなければならない。残念なことに防衛の世界でも同じ事が言える。
 
 

知識は絶対的善では、ありえない。知識そのものは中立であるとしても、知識を持ってなすことは必ずしも中立でありえない。都合の良いように行動を起こさせるための、心の支配の研究は勧めて行ってもいいものか(人の心の操作)。 悪魔しか出てくるはずのないパンドラの箱なのではないか。

 
誰が決めるのか。決定の結果は重大である。資源配分リスクをはるかに超えるリスク。優先順位など、決定は重大である。いづれを優先すべきか。この決定は価値観に基づく決定として、未来に関わる著しく主観的な評価として行わざるを得ない。科学的な判断ではありえず、価値観に基づく判断たらざるを得ない。一人一人の意思決定はその大事な責任である。
 
 
 

1900年ごろの最も独裁的な政府さえ今日当然とされているほどの公安調査は行わなかった。

 

政府に任せれば争いはなくなり意思決定の必要もなくなるという、より一般的な幻想の表れ

邪悪な私益を抹殺すれば正しい道は自然に生まれ、あらゆる意思決定が自動的に行われるようになる。

利己心もなくなる。

こうして政府を信頼することによって、

政治と責任からの逃避が可能となる。

この幻想の根拠となっていたものが企業、利益、財産への嫌悪だった。

もう一つのより危険な根拠が責任、特に意思決定の回避への願望だった。

そしてこの責任の回避がやがてファシズムとナチズムが力を得、まともな人たちを巻き込んでいく原因となる。

 

政府は

利害の対立を

自動的に意思決定に

変えてくれるものではない。

 

 

今日の政府はまさに統治不能となっている。

官僚と官庁はますます自律性を高め自己完結的となっている。

政策ではなく自らの権力自らの論理自らの視野で、自らの方向付けを行っている。

行政機関を作ることは長けている。

しかしその機関が設置されるや直ちに

自らの目的を持ち補助金を既得権益とし、

一部納税者からの支持を手にし

政治からの独立を得る。

誕生するや否や

公共の意思と、公共の政策を

無視できるようになる

 

 

社会を機能させるには

一人一人の人間の働きによって成果を上げさせる方法を

知らなければならない。

社会を自由なものにするためにも、

組織と仕事をして

一人一人の人間が

自らの目的、価値、成果に役立たせる方法

知らなければならない。

 

さもなければ、

やがては政治による一人一人の支配

そして社会の支配という間違った方向

進ませることになる懸念がある。

知識人たちは政府の資金で雇われながら、

このことを気にしてこなかった。

自らの純粋性に自信過剰であった。

資金をもらうことによって

彼らを支配しようとするものなどいるはずがないと確信していた。

知識の方向性については

自分たちだけに決定の能力があると確信していた。

しかし、

彼ら自身の利害が関わっているからには

たとえ優れた仕事をしてきたとしても、

彼ら当事者には

その決定は任されるべきではないのだ。

(以上ドラッカー著書参照)

 
 

権力は人の生死をも左右する強制力を伴うものだけに、

その行使は人々の「不幸」の原因を最小化することを

目的とするすべきである。

(以上民主党マニフェスト参照)

 
 
 

昔、知識あるものが権力を持ったことはなかった。

今日、知識が権力を握った。

教育し、多くの知識を与えるが、

英知(すぐれた知恵)を、与えることは殆どない。

今日の知識ある者が

自らの責任を自覚していなくても

驚くにはあたらない。

知識人ではあっても、彼らは、

かつて権力を握った他の無責任な者たち

いささかも変わるところはない

 
 
 

今、知識に関わるもの

高度の倫理基準が求められる。

これまで彼らは自らの客観性と科学性に誇りを持ってきた。

善たるべき者の手本、模範、鑑と自負してきた。

しかし、知識に

力の伴っていなかった時代においては

完全なものだった私人としての善意も、

力を持つ集団の一員と言う立場に立つと、

その善意の倫理性

きわめて低い。

力を持つ集団の場合は、

如何に純粋な信条、如何に正しい動機といえども、

はなはだ不道徳となりうる。

 
 

知識が力を得、かなりの収入をもたらすに至った今日に至って、

なおその様な二枚舌が容認されるか。

その様なことは正当化しうるか

それとも社会と個人への干渉侵害と見るべきか。

許されざる限界はないのか。

 

人として倫理を逸脱したときも彼らは、如何なる個人的利益も得ていないと弁じる。彼らを批判することさえ犯罪的な間違いだというのだ。

 

知識に関わる倫理は専門分野の同僚によって判断され律しられなければならない。あらゆる職業において、倫理は自己規律によって律すべきである。

 

 

しかし本人たちが問題に取り組まず、問題の存在さえ認めないならば、ほかならぬ社会が、問題に取り組むことになる。なぜならば、力には倫理が付きまとうからである

 

もし知識に関わるものたち自身がこれを行わないならば、社会がこれを行う。倫理は免責とならない。

 
 
 
 
知識ある者が自らの独占的な地位を守るために課している制限的な慣行をどう判断すべきか。その地位を要件とすることは正当化されるかその地位が優れた社会貢献、優れた仕事をするという保障はあるか。その分野を守るための交通料を払った者にだけに地位、報酬を認めるのか。さらには高官の身分保障も倫理的に正当化しうるものか。確かに政治的な圧力や管理的な専制から守ることは必要である。しかし彼らに対する身分保障はそれらの圧力よりも害をなしているのではないか。彼らの傲慢、無能と怠慢から社会を守る方法はないのか。
 
 
知識に関わるものがまだ力を手にしていなかった頃は、これらの問題も無視しえた。知識に関わるものが力の中枢に位置するようになった今日、力を持つ集団自らの倫理責任を持たなければならない。さもなければ堕落する。知識あるものはその内容、水準、成果、影響について責任を負わなければならない社会的に意味のあるものに出来ないならば、少なくともその呪縛を解くことがその者の責務である。今後、社会の批判と憤激と敵意を招くであろうもの知識に関わる者の傲慢である。
 
 
われわれの直面するものが知識の地位と力の変化である。仕事の基盤が知識並行したことが、知識に関わるものに新たな責任を課す。彼らがそれらの責任を如何に引き受けるか、そしてそれを如何に果たすかが、知識の未来を左右する知識に未来があるか否かを決める。)
 
 
 
自分の意思を持たない人間無責任でもある。
意思決定しない人間は自由でありえない。
自由と責任であって放縦ではない。
 
 
 
自由な社会にするには一人一人が自らの責任及び組織の責任として社会への貢献の責任認めなければならない。自由とは責任であって放縦ではない。
 
 
人生から何を得るかを問い得られるものは自らが投じたものによることを知ったとき、人は人として自由になる
 
責任には必ず権限が伴う。権限のあるところに責任がある。権限のないことについて責任を持つことは越権である。したがって問題は何が組織の正しい権限かである。自らの機能のゆえに如何なる影響を社会に与えるかである。あらゆる組織が人に力を行使する。
 
 
 
社会は一人一人の人間自分の生活を送れるものでなければならない。自由な社会においては市民は責任を負う。特に社会と自らの組織に対し責任を負う。今日の多様社会において、この責任はかつてのそれと異なる。今日の社会はかつてよりも、はるかに意味と責任のある自由を与える。だがそれが実現されるかどうかは、われわれ自身にかかっている。われわれは政治の構造、およびそこにおける個人の位置と役割について深く考えるべき時にきた。(以上ドラッカー著書参照)
 
 

 

 

 

 

                                                   

 

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