平成19年3月・和霊小学校のプールが消えた

宇和島藩江戸上屋敷跡に国立新美術館が出来てから二ヶ月




管理人の都合でこの知らせが遅くなったが、
今年の三月に和霊小学校のプールが消えた。

少し前置きが長くなるが、歴史資料館で発行している「資料館通信・七号」から記事を下に
引用する。写真は以前撮っていたものと、休日を利用して慌てて撮りに行ったものがある。

  
長い間子供たちの夏を楽しませてくれたこのプールもいつのまにか荒れ果てていた。
(私も水泳教室に通った、数メートルは泳げるようになった。本格的に泳げるように
なったのは、それから何年も過ぎてからだが、ここでの想い出は残っている)



平成十九年二月、和霊町の勤労青少年ホームの横にあった旧・和霊小学校のプールを撤去する
工事が始まりました。

   

和霊小学校が丸山の現在位置に移転後も市民プールとして、長年大勢の市民に愛されてきま
したが、設備の老朽化に伴いその姿を消しました。 昭和十五年九月十五日に当時の和霊尋
常小学校に完成したプールは、愛媛県の小学校では一番最初に作られたものだということだけ
ではなく、たくさんの記録を刻みました。 まず、竹筋コンクリートで作られていたということです。
つくられた時期は日中戦争に突入した頃で、金属は軍事に使用することが優先されていたために、
民間での使用は制限されていました。そのため金属を使用することが難しくなって、鉄筋の代わ
りにプールの底は主に竹を使用した「竹筋コンクリート」で作られました。竹筋コンクリートの建造
物は全国ではまだいくつか残されていますが、派手なものではないために次第に少なくなっていま
す。 次に資金面について、細かい額は不明ですが、当時の建設費の約一万余円ののうち、市民か
らの寄付金、とりわけ保護者からの浄財が大きな額であったことです。特に自分の子供さんを水の
事故で亡くされた方からは千円という当時では高額の寄付金を頂いたとも記録されています。

 プール建設という考えは、当時和霊小学校の校長をされていた二宮彌助先生が児童の健康教育
一環として構想を練り、実現に至ったものでした。しかも単なる施設を作るということだけではな
く、当時の宇和島における教育に対する熱意が、学校のみならず市民の中に浸透していたことを表し
ていると思われます。 戦後も市内の小学校では長い間和霊小学校だけにしかプールがありません
でした。現在五十歳代以上になっている方の中には小学生当時、毎年夏休みになると、このプー
ルで開かれた水泳教室に通った方も多いことと思われます。

 昭和三十一年、オーストラリアで開催されたメルボルン・オリンピック水泳平泳ぎでは金銀のメダル
を日本人が取りましたが、その時銀メダルの栄誉に輝いたのは宇和島市出身の吉村昌弘選手(宇
和島東〜日本大学)でした。その吉村選手が子供の頃練習をしたのもこのプールでした。

昭和二十一年十二月二十一日に発生した「南海道地震」(M8)では各地に甚大な被害を出しまし
たが、このプールはびくともせず、関係者は竹の強さに改めて感心させられたそうです。 時代の
流れでプールはなくなりましたが、私たち宇和島市民はこのプールの歴史から当時の関係者の努
力や熱意を心に刻んで誇りにするべきだと思います。

   
更地になった現在。右の向こうは「勤労青少年ホーム」(サン・プラザ)
 
竹筋コンクリート(右)



今のところ、このプール跡地が何になるのかは判らん。
ついでに、近くにあった、県営「明倫アパート」も取り壊された。(これは改築するらしい)

 
ありし日の姿

  
右の山の上は和霊小学校
 
これもちっとも知らなんだ。



さらに「資料館通信」からの記事を引用する

国立新美術館は
     
宇和島藩江戸上屋敷跡へ

今年1月21日、東京都港区麻布に「国立新美術館」がオープンしました。この場所は江戸
時代、「宇和島藩江戸上屋敷」でした。敷地は当時の資料によればおよそ4000坪だったと書
かれています。 明治維新後、多くの大名屋敷跡は公園とかおおやけの施設になりました。
(たとえば加賀藩邸が東京大学になった等…)
 この「宇和島藩江戸上屋敷跡」に、日本陸軍歩兵第三連隊の建物が出来ました。昭和には
いって、いわゆる「2.26事件」の舞台にもなったところです。
 戦後は近くにある防衛庁とともに米軍に接収され、その一部はまもなく返還され「東京大学
生産技術研究所」となりましたが、大部分は「米軍ヘリポート」として使用されてきました。

 「宇和島藩江戸上屋敷跡」に完成した「国立新美術館」ですが、このような形で大名屋敷跡
が公共施設としてそっくり残されるケースは戦後で初めてのことだそうです。



緊急特派員報告

東京にお住まいのYNさんのご了解を得て送っていただいたばかりの

国立新美術館の近況を掲載します。

 
六本木の「東京ミッドタウン」前の大通りから入った所(左)
話題になった新美術館の全景(右)
ごちゃごちゃ何かいると思ったら、人だった。恐!

  
政策研究院大学(左)中央の木立の奥がヘリポート (中)

  
皆様、宇和島藩邸にようこそ。と言いたいが、、、どこかにこぢんまりとした標示が欲しいところである。

  
美術館前広場(左)と館内の様子。右は入り口付近

〜感謝YN様〜

ヤフーの「古地図で東京巡り」を見れば当時の宇和島藩江戸上屋敷がどれほどの広さか判る。
このサービスは期間限定なので、今でも見ることが出来るかどうかは不明。
著作権の関係でここからリンクや紹介は出来ないけれどご自分で探してほしい。
江戸時代−明治時代−現代 とそっくりそのままの画面で見ることができる。

原宿村にあり、佐賀藩鍋島家とは隣同士である。ここら辺りも嫁入りに来たという事と関係ある
のかな? 伊予宇和島藩 伊達遠江守宗城 十万石 と書かれた屋敷内には「和霊祠」も見る
事ができる。愛媛県文化振興財団で発行された、玉井建三著「江戸・東京のなかの伊予」
という本には渋谷区恵比寿の秋祭りでは「宇和島下屋敷跡」に住む住民によって作られた「伊達睦会」
が「山車」をだす写真が載っている。この本ではここ麻布の上屋敷は総面積32,714坪余り
だったと書かれている。ただ、ちょっと引っかかるのはこの場所についての事ではないが、同書中に
「天下のお尋ね者」となった高野長英を宇和島藩主が宇和島にかくまったのは「弘化三年(1846)
と書かれているが、一般的には嘉永元年(1848)(「宇和島の自然と文化」他多数)と誌されている。
これは、失礼ながら著者の錯誤ではないかと思われる。

前に戻る

平成16年8月

平成16年9月

秋の目黒鳥家

三浦天満宮
平成16年11月

平成17年1月

 平成17年2月

平成17年3月

関口知宏鉄道の旅

平成17年4月
平成17年5月@ 平成17年5月A

平成17年7月

平成17年8月

平成17年9月

平成17年11月

平成17年12月

平成18年1月

平成18年3月

番外編・内子町のしだれ桜

平成18年4月

平成18年5月

平成18年6月

平成18年7月

平成18年8月 
 平成18年9月 平成18年10月

平成18年11月

平成18年12月

平成19年1月

平成19年2月 
JR宇和島駅周辺

平成19年2月 大浦まで歩いた

平成19年2月
石応まで歩いた

平成19年3月 商店街を歩いた

これ以前のバックナンバーはこちらをご覧ください。

城下町宇和島から・最近の宇和島

トップにもどる


Ads by TOK2