
平成19年2月・特別編・石応(こくぼ)まで歩いた
多少時間と画像の差があることをご容赦願う
(画面はあくまでもイメージである?)
遠足に出かける前に地名の勉強をする。
他所から来られた方には読みにくい地名がある。
東の横綱格はなんと言っても石応でがんす。(こくぼ)と呼ぶ。
坂下津もこの土地ならではの呼び方で(さかしづ)と呼ぶ。
すっと以前、道を聞かれたとき、「さかしたつ」と言われた事があった。
今回は出てこないが難解な地名を少し述べると。
元結掛=もっといぎ(石応と並ぶ西の横綱か?)
難易度は別にして、思いつくままざっと旧宇和島市の北からあげてみるぞ。
高光(たかみつ)、光満(みつま)、申生田(さろうだ)、和霊町(われいちょう=ま、これはポピュラーか)
神田川原(じんでんがわら)、丸穂(まるお)、山際(やまぎわ)、御殿町(ごてんまち=これもそのまま
ではあるがりっぱな名前だ)並松(なんまつ)、保田(やすだ)、来村(くのむら=現在は村ではな
いが村をつけた方が通り名に近い)保田(やすだ)、保手(ほで)、寄松(よりまつ)、祝森(いわいのもり)、
大福浦(おぶくら)、無月(むづき)、船隠(ふなかくし)、夏秋(なつあき)、安米(あこめ)、
蛤(はまぐり=これも、まんま)、百ノ浦(ひゃくのうら)、遊子(ゆす)、水荷浦(みずがうら=段々畠で有名になってきた)、
魚泊(うおどまり)、明越(あけごえ)、蒋渕(こもぶち)、高助(こうすけ)、下波(したば)、神崎(こうざき)、結出(ゆいで)、
日振島(ひぶりじま)、明海(あこ)、喜路(きろ)、能登(のと)、御五神島(おいつかみじま)
戸島(とじま)、美砂子(びしゃご)、大内浦(おじうら)、小内浦(こじうら)、郡(こおり)

鶴島小学校の横を坂下津まで歩く。
私が子供の頃にはここは一面のハス田であった。
鶴島小学校の横の細い坂道は田んぼの中を横切って明倫町に続いていた。

(左)ガスタンク、(中)宇和島水産高校、(右)予科練橋の方に進む

(左)バス停じゃ。(中)明倫町も住宅が増えた。(右)坂下津工業団地が向こうに見えてきた

ここいらは非常に交通量が増えてきた。橋の上から神田川の方を見る。橋の突き当たりは寿司が回る店。

産業団地はまったく色気がない。過ぎるとかまぼこ屋が。

堀切は昔に比べて道幅が広がった。

ジャーン。坂を下ると目に前には九島が見える
この島はどことなく安定感がある。
今はどうか判らないが、高校時代には夜も戸締まりしないと言うことを聞き、驚いた。
島全体が素朴な感じであった。
(左)このタワーはかなり昔からあった。
予科練跡がそうだと錯覚するが、ここが本物の坂下津である。

(左)テレビドラマ「きみせか」で、カヲル役の前田アキさんが主人公細田クンを見送ったシーンに出てくる場所。
ここ辺りで山を越えるとバイパス下を通り、宮下、保手に出る。帰りはこの道から城東中学の方に出た。
ここは狭い道だった。予算消化もあるのだろうな。
この時期、めちゃくちゃ道路工事が多かった。
写真は左が市内側から、右は石応側から見たところ。右の写真にあるタコ入道みたいな
物体は、団地の貯水槽だと思う。

(左)ハイ、「おぶくら」です。
(中)曲がりくねったリアス式海岸なので、これだけ歩いてもさっきの坂下津のタワーがまだ近くに見える
(右)警察の事故防止の警告も「方言」たっぷりだすらえ。

道幅とバスを比べてほしい。離合に苦労する。
こんな看板があることは、この辺りで「モイカ」が釣れるらしい。知らんかった。

次のカーブを曲がると目の前に堂崎が見えてくる。(左の半島)

ようやく石応に着いた。一時間は歩いたかな?
ここもNHKテレビドラマ「きみせか」のロケに出てきた。

石応の湾を過ぎて突き当たりを右の狭い道に入ると堂崎観音に出る
中・「うばめがし」の樹叢(じゅそう)は宇和島市の天然記念物になっている。
樹齢七百年から八百年はある「うばめがし」が集団で生い茂っているところは珍しいそうである。

お寺は臨済宗・観音寺
堂崎と言えば平家の落ち武者伝説が残されている。右はそれを物語る五輪の塔
しんどいが、伝説を
源氏に一隊は残敵を豊予海峡に追い、宇和島九島沖で発見した。
堂崎にきてみると、主のない小舟が波間を漂っている。さっそくこの辺りを
捜索したが見あたらない。探し疲れた一行はお堂で休んでいると、お堂の天井
板の隙間から出た赤い布きれを見つけ、天井裏に隠れていた数人の女官と気高い
童子を捕まえた。海岸でそれらを斬り殺したが、それを近くの「小高島」で見た平家
の落ち武者たちは、裸になり、刀を口にくわえて泳いで来たが、源氏側の射る矢で
全員死亡した。その時の源氏の武将は討ち死にした平家の落ち武者の霊を弔うため
部下を帰したあと、ここに一人残り、念仏さんまいのあと木像を刻み数年後没したという。
地元に残された因習で、昔はこの堂崎観音に参詣するときには「赤い着物」を身につける
ことはタブーであったという。この話は九島を隔てた反対側の赤松遊園地の「覗き岩」伝説
とよく似ている。というより、西日本各地に残されている話しには共通のものがあるようだ。
来た道を坂下津まで引き返し、山を越えて宮下に向かった

バイパス下、宇和島にこんな光景があるなんて。
町も変わってしまった。
宮下から市内を見る。来村川には「シラウオ」漁の四つ手網の準備が、あれ、もう終わったのかな?

城東中学の横にはNHKラジオの中継塔が。ここに移転するずっと前は市立病院のそばにあった。

城東の正門前から国道56号線に出る。
本屋だぜ。確かに行けば欲しい本がすぐに手にはいるが、私の信念の一つに、
「本は地元の零細書店で買おう」運動がある。
値段が同じ、内容も同じなら、どこで買っても変わりない。なら、大きな書店
で買うこともないだろう。という私も、即読みたい時には、ここなどを利用するけれど。
明倫橋のそばで。
中・宇和島南高、右・明倫小学校

明倫小学校から、城南中学校に。右の木々の茂みは「天赦園」

この三叉路を国道は右に折れ、城山下をぐるっと回って松山に向かう。
私は松山には行かないから、道をまっすぐ進む。
東高プール横から見た宇和島城(右)

鶴島小学校の前に戻って来た。右は東校グラウンド。野球部の練習でホームランボールが
飛び出すのを防ぐため高いネットが張ってある(写真左)これを越えて鶴島小学校に
ボールが飛び込んだという伝説がある。だが、それも過去の話しになったのだろうか。
あーしんど。今日はがいに日にこげた。
で、反省会をしました。宇和島らしいところってどんどん消滅している。
そういえば、作家の「高村薫」氏が新聞で書いていたなー、東京を模倣する
町は消えていく、って言うような意味の文章を。地方に住んでいるとその感覚が
麻痺して、便利さだけを求めて、大切なものを気がつけば失っているんだな。
この2月、休みで天気の良い日には歩き回ったけれど、宇和島の良さを紹介する
ことが出来なかった。逆に宇和島が崩壊していく様を伝えてしまったような気がした。
宇和島らしさってなんだろうか。そう言えば住吉山に測候所があった時の写真など
全然残っていないもんなー。高村酒店の煙突が消えたのも突然だった。煙突ばかりか
小売り店も無くなった。この数年で、私の知っている酒屋が二軒、電器屋一軒
印刷屋一軒が廃業した。目につくのはスーパーや量販店ばかりだ。
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