
平成19年3月・辰野川に沿って歩いた
その三・野川方面を歩いた(2)

ここで左に下りてしまった。最初はずっと上まで歩くつもりだったが、私の足が勝手に進んだ。

また、橋に出会った。「昭和十五年三月架設」「楠橋」と書いてある。
「くすのきはし」なのか「くすはし」なのか判らないが、たぶん「くすのき橋」なのだろう。
関係ないがふと今治に「クスハシ紋織り」という会社がある事を思い出した。
宇和島の町中からさほど離れていないけれど、牧歌的な雰囲気がある。
断っておくが本当に上まで行きたかった。

ここまで来ると車の通る道路になる。
この三叉路に出る。どこかと言えば電電公社(古い言葉だなー)の社宅の下の酒屋の下。(と言うように憶えていた)

いかに狭い道であっても、車は結構通る。先に見える赤いポストの場所は難所である。

車の離合が難しい。

そのため至る所にカーブミラーが取り付けられている。(左)
車で走っていて、ここまで下りるとホッとする。もうすぐ道が広くなる。(右)

竜華が見えてきた。ずっと昔、この辺りに親戚の「中尾」のお婆さんが住んでいて
遊びに行った記憶がある。もう50年以上も昔だ。
長屋風の建物があったような気がするが、今ではすっかりモダンな家が建っている。

竜華の前を通り、川に沿って下る。
右の正面は初代藩主伊達秀宗公の墓所(四代藩主村年公の墓及びいろんな人のお墓)
(いろんな人=藩侯夫人、殉死した人など)

これ、前にも出したっけ。初期認症か?

路地はなぜか心が落ち着く、家の合間を抜けると城が見えてくる。
そうして、先ほど渡った「観音橋」に出る。

上の光景からほんのわずか離れただけで、異次元のようになる。
国道56号線にまたがる歩道橋の上から。
国道にしても車が少な過ぎると思われるだろう。
意識して車の少ない時を撮った。

旧家老「桑折」氏の屋敷跡。(左)
今末裔が医者、お父上も医者だった。私は風邪を引くとすぐ視て貰った。
もうお姿は憶えていないが、ベルトを何時も「革帯」とおっしゃっていた事は憶えている。
長屋門は空襲を免れて、道路拡張の際、現在の城山登山口(北側)になっている。
城山の周囲は城下町にしては珍しく、一部を除いて四車線である。
これは、戦災復興のとき当時の市長の英断で拡張工事をしたと聞いている。
拡張工事の時、家をジャッキで何十センチか持ち上げて人力で移動させるのを
見たような記憶があるが???

「南予歴史文化街道」ってなんよ?(中)
こういうネーミングをすれば何か生まれるのかな?

都会らしいと言えばそうなんだろうが、あまり見たくないような光景(中)
寂しい建物(右)

城山の西に帰った。

この四つ角は違法駐車が多い。有名な八百屋と鮮魚店があるので。(中)
では家に帰る。お疲れ様。
緊急報告
あの追手の老舗「清水閑一郎本舗」姿消す。
3月も終わりを告げる頃、追手を通って、驚いた。
「清水の唐饅」で有名だった「清水閑一郎本舗」の建物が消えていた。
いろいろな事情があってこの数年、店を閉めていた。
私はその前を通る度に辛い思いを抱いていた。老舗故のプレッシャーか。
長男は私と同い年であった。また、二男の結婚式にも出たことがあった。
宇和島東高校野球部が甲子園で初優勝をした、その日であった。
以前から私は、ウィンドウを固く閉ざしている店舗をカメラで撮ることをためらっていた。
事情を聞いていたからこそ、なにかさらし者にするようで躊躇していた。
でも、消えてしまうことが判っていたら、意識的に記録を残していただろう。
ある風景が突然変わった時、人は改めて時の流れを知るのだろう。
「清水閑一郎本舗」に対し我が心のレクイエムを込めて。

左・2月頃 右・3月28日
私もうかつだった。左の写真をよく見たら、工事用の車両やフェンスが写っているではないか。
注意力散漫は事故のもと、高齢ドライバーになったなー。

撤去後

左・2月頃 右・3月終わり
形のあるものはいつかは消えてしまうのだろうが、これはちぃーっと辛い出来事だった。
サイトにアップするのに、これほど気が重いことはなかった。
少しでも多くの全国の宇和島関係者にお伝えすることで、気が晴れるか?(自己満足に過ぎないだろうけど)
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